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(1)岡山県と北方領土のかかわり

―古川古松軒と蝦夷地紀行―

岡山県と北方領土の歴史的なつながりとしては、江戸時代後期に地理学者として活躍した古川古松軒がいます。彼は、蝦夷地を紀行し、その際の見聞録は、のちの北方領土の開拓者、近藤重蔵などに大きな影響を与えています。ここで、古川古松軒について、簡単に述べてみることにします。

18世紀の末に老中となった松平定信が改革政治を行った寛政のころは、徳川幕府が内外に大きな問題を抱えた時代でした。幕府をおびやかす力は国外からもせまり、ロシアや外国船が、たびたび日本の近海に現れるようになり、林子平らによって、海防論が唱えられました。
松平定信が老中筆頭になった直後の1788年(天明8年)5月、幕府は奥州、蝦夷地へ巡見使を派遣しましたが、この一行、およそ120人の中に、のちに地理学者として知られる古川古松軒の姿があったのです。

古川古松軒(1726年~1807年)は、備中国新本村(現在の総社市新本)に生まれ、のち、岡田(現在の倉敷市)に住みました。若い頃から、歴史や地理がすきで、各地を旅行して多くの紀行を書き残しています。なかでも、1783年(天明3年)、53歳のとき、九州を一周した旅の紀行「西遊雑記」と、この巡見使について蝦夷地へ渡った旅の紀行「東遊雑記」は有名です。

巡見使が視察したのは、蝦夷地の南端の一部にすぎず、また滞在も1か月でしかありませんでしたが、「東遊雑記」には、松前藩のこと、アイヌの風俗や習慣など、蝦夷地で見聞したことが、全体の4分の1にわたって記録されています。蝦夷地での体験が興味深いものであったことがわかります。

「百聞は一見に及ばず」これは古松軒の口癖でした。彼は何よりも、自分の目で見ることを重んじる人でしたから、記録は正確であったと思われます。古松軒より10年後、蝦夷地を視察し、択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を建てた幕府役人、近藤重蔵が、国後島のアトイヤから備中の古松軒に送った手紙の中で「東遊雑記」の記事の正確さに感心したと述べています。

(2) 岡山県における北方領土返還要求運動

これまで、どちらかというと希薄であった北方領土に対する県民の意識が、岡山県議会や北方領土展の開催をきっかけにして盛り上がり、返還要求運動に積極的に参加する人たちが増えていきました。
56年2月、国が2月7日を「北方領土の日」と定めたことにより、全国的にさらに活発な動きが見られるようになりました。岡山県においても、今まで個別に運動を続けていた人たちの間に、返還運動を盛り上げていくためには、それぞれの立場での運動の進め方などを幅広く話し合うための組織が必要であるとの認識が高まっていきました。

そこで、今まで返還運動に積極的に取り組んでいた人たちが連絡を取り合って準備会議をつくり、県民会議の結成に向けて協議が重ねられていきました。
そして、56年12月18日、これらの人たちを中心に25名による設立発起人会ができ、翌年の2月8日、県、市町村をはじめ、青年、婦人、労働、福祉、経済、農業など、県下のいろいろな団体の代表者65名が岡山市で設立総会を開きました。ここに待望の岡山県北方領土返還要求運動県民会議が発足したのです。

(3) 北方領土返還要求運動都道府県民会議

1.名称
岡山県北方領土返還要求運動県民会議
2.設立年月日
昭和57年2月8日