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(1)こんぶがとりもつ大阪と北方領土

大阪は全国で最大のこんぶ集散地です。遠く北の海で取れたこんぶが大阪へ運ばれ、加工されて名物・大阪こんぶとしてひろく親しまれて来ました。
大阪とこんぶの深いかかわりは、江戸時代から続いているのです。
こんぶ加工は大阪の特色ある産業です。このことは、大阪商工会議所発行の「大阪経済史料集成」に、こんぶ業界の沿革が取り上げられていることからでもわかります。

1) こんぶの産地

こんぶの産地は古来、北海道(「北方領土」を含む)と樺太・東北地方です。
北海道では、こんぶは最重要産物の一つとされ、幕府や松前藩がその増産を奨励しました。北方領土の国後島、択捉島で採取されたのは1800年(寛政12年)以後のことです。

2) こんぶ交易のはじまり

本州と北海道との交易が盛んになったのは、鎌倉中期から室町時代へかけての時期です。当時北海道などとの海運は日本海側にひらけ、その産物は敦賀、小浜の二港を経由して陸路馬の背輸送と琵琶湖の水運によって京都、大阪へ運ばれたのです。

江戸時代に入って、諸藩が大阪に蔵屋敷を置き、米穀その他の領内産物を大阪へ送るようになりました。こうして各種の産物を乗せた諸国の船が大阪に集まり、ここで産物のねだんを決めて、大阪を基点としてこれらの物産が全国に積み出されました。

1640年(寛永17年)ごろ、下関海峡、瀬戸内海を通って大阪へ直結する西回り航路が河村瑞賢によって開かれました。これにより、産物の大量輸送が可能となりました。
この西回り航路の開発で、北海道と大阪との交易は急速ににぎわいをみせ、大阪が北海道産物の重要な市場となり、最大のこんぶ集散地となりました。

こんぶが北海道から大阪へ直送されたのは1711~36年(正徳・享保)のころで、本格的に取引されるようになるのは1751~72年(宝暦・明和)以後のことです。そのころは北海道のこんぶが増産され、大阪に向けて盛んに積み出されて来ました。1772~89年(安永・天明)になるとこんぶ荷が激増し、大阪にこんぶ専業の問屋、仲買が現れました。

3) こんぶの加工

大阪で細工こんぶ(注①)の加工は1688~1736年(元禄・享保)ごろから行われましたが、安永・天明のころには細工こんぶの需要が増え、新しい細工法が開発され、材料も最上質のこんぶが使われるようになりました。
細工こんぶと並ぶ刻みこんぶ(注②)も、1721年(享保6年)ごろ大阪ではじめて作られました。刻みこんぶは国内の需要もありましたが、主として中国へ向けて輸出されました。

北海道、北国と上方を結ぶ北前船の荷揚げは堺港で行われました。そのころ堺はすでに刃物の産地として有名で、その刃物を利用して日本一の細工こんぶ加工地となりました。青刻みこんぶ(注③)加工業は広い干場がいるため大阪市内の上町台地に集まっていました。

このようにして大阪のこんぶ業は発展し、1790年(寛政2年)こんぶ業者は、初めて公認組合としてこんぶ商仲間を組織するまでになりました。
1804~30年(文化・文政)には、北海道の根室、国後島、択捉島のこんぶ漁場開拓とともに、大阪へのこんぶ移入が増え、細工こんぶ、刻みこんぶともに活況を呈し、大阪はこんぶの集散と加工の両面でさらに大きく発展していきました。

4) 北方領土のこんぶ

北方領土のこんぶほど複雑な国際情勢に巻き込まれたこんぶはありません。
江戸時代に日本人によって開拓され、大陸向け輸出品として大きな役割を果たしてきた北方領土のこんぶ資源は、今はほとんど採ることができないのです。

戦前の北方領土におけるこんぶ生産高(昭和11~15年の5か年平均)は、歯舞群島(水晶島、秋勇留島、勇留島、志発馬、多楽島)を最高にして色丹島、国後島、択捉島を合わせて32,000トンにも達していました。現在の国内生産高は養殖促成こんぶを含め年間27,000~28,000トン、これに輸入品を加えても総量30,000トンですから、戦前はそれを上回る多量のこんぶが北方領土で水揚げされていたのです。まさに、こんぶの宝庫というほかはありません。

世界で一番良質のこんぶのとれるのは日本です。こんぶは日本の海産物の代表です。
近年、食品の汚染やインスタント化が進むなかで、健康食品、自然食品としてこんぶは見直され、需要が増えています。ところが年々減産が続き、そのため海外からも輸入をしているのですが、充分に需要を満たせていない状況です。

このような状況から北方領土のこんぶが望まれてなりません。1963年以後根室の納沙布岬に近い貝殻島付近で、こんぶ漁の安全操業が続けられることになりましたが、これは北方領土のわずか一部にすぎません。
北方領土は、日本人が長い間かかって苦労して切り拓いた漁場です。そこには貴重な資源、よいこんぶがたくさんあるのです。北方領土が返れば、こんぶの増産は間違いなく、国民の食生活に一層貢献できるのです。

(2) 大阪における北方領土返還要求運動

1) 運動のはじまり

大阪における北方領土返還要求運動は、昭和40年代の後半、地域婦人団体、青年団、青年会議所等の活動によりはじまりました。(注④)
またこの頃、大阪近辺のこの運動に深い関心を持っている人たちが集まり、北方問題研究会を開いていました。

2) 北方領土返還促進関西センター

1975年(昭和50年)に、北方問題研究会の人たちが中心になって、関西における各団体の運動の統一と府民的運動を目指して「北方領土返還促進関西センター」が結成されました。
このセンターは、府内市町村に対し運動への参加協力を要請するとともに、現地視察、キャラバン、街頭宣伝、講演会等の啓発活動並びに元島民や根室地域住民との交流活動を行いました。
この他、「大阪府中学生北方領土視察団」派遣等の事業を行ってきましたが、1985年(昭和60年)末発展的に解消され、事業は府民会議へ移行されました。

3) 府民会議の結成と返還運動

政府が2月7日を「北方領土の日」と決めたことを契機に、府民会議結成の機運が高まり、関西センターが中心となって1981年(昭和56年)12月12日、71団体が集まって「北方領土返還運動推進大阪府民会議」が結成されました。

(3) 北方領土返還要求運動都道府県民会議

1.名称
北方領土返還運動推進大阪府民会議
2.設立年月日
昭和56年12月12日
注① 細工こんぶ
おぼろやとろろのように刃物で細工したこんぶ
注② 刻みこんぶ
煮込みやすい、食べやすい大きさに切ったこんぶ
注③ 青刻みこんぶ
野菜色に染色し糸状に細くきざんだこんぶ
注④ 大阪における北方領土返還要求運動のはじまり
大阪こんぶ業界の中堅で組織する大阪昆布昭和会でも、1974年(昭和49年)その設立時に、根室市の指導のもとで会員は名刺に「取り戻そう北方領土」と印刷し、返還を訴えました。