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(1)埼玉県と北方領土のかかわり

1) 蝦夷地との交易

ア.舟運の盛衰

埼玉県は海のない県で、およそ1,000kmも離れている北方領土とは、まったく縁がないと思われるのですが、太平洋から利根川を利用した船での交易は、江戸時代からさかんに行われていました。
北海道や北方領土でとれたさけやますが、塩漬けにされ埼玉県へ船で運ばれて来ました。1883年(明治16年)高崎線が開通してからは、しだいに鉄道輸送に切り換えられて来ました。

イ.永徳屋商店と海産物

深谷市稲荷町で海産物を商っていた永徳屋商店は、大正から昭和初期にかけて、北海道や北方領土の海産物を大量に仕入れ、中部地方から関東及び東北地方にまで、広く売りさばいていました。
主な海産物は、さけやますを新巻にしたものですが、そのほかにみがきにしんや酢だこなども扱いました。
買いつけには択捉島まで行ったそうですが、販売に関しては函館水産販売会社をとおして行っていました。

1934年(昭和9年)、全国の有力なさけ・ます販売業者を会員とする日本鮭鱒販売連盟会が創立されてからはこれに加盟し、おたがいの販路協定をかたく守っていました。連盟の加盟店は「○○県日魯組」の名称を用いていましたが、埼玉県のように海産物問屋が一つしかないところは、「永徳屋」のように日魯組の名称を用いませんでした。
永徳屋商店の買いつけは、北海道の海産物の相場が変動したほど多かったといわれ、多いときは、貨車全車両に積み込んで来たとのことです。

2) 北海道の開拓

ア.開拓奨励

明治新政府は、国力増強や北方の警備のために北海道の開拓を奨励しました。
埼玉県人のなかには、石狩やその周辺に入植し、広大な原野を開拓したものも少なくありませんでした。
明治30年代には、年間100人をこす入植者がいました。入植希望者は目的地へ向かうとき、妻子を故郷に残して旅立ちました。そして、1年から2年一所懸命に働き生活できる見とおしがついたとき、家族を呼び寄せたのです。開拓に向かう強い情熱と意志が感じられます。

イ.清水宗徳と開拓

清水宗徳は、1843年(天保14年)入間郡広瀬村(現在の狭山市)の大庄屋の長男に生まれました。
宗徳は農民の殖産に力をそそぎ、村有の荒地を開いて桑を植え、養蚕の奨励につくしました。
また、埼玉県の人口増加にともない、年々耕作地が不足し、土地を持てない者が増加することを憂い、北海道の開拓を埼玉県知事等に進言しました。そして、自ら北海道埼玉植民協会の幹事となり、明治25年以降、北海道石狩国空知郡奈河村字奈江(現在の奈井江町)で、原野の払下げを受け、そこを開墾し一集落を建設しました。

ウ.洋紙業のパイオニア

洋紙業のパイオニアといわれた大川平三郎は、1860年(万延元年)、武蔵国川越に近い入間郡三芳野村(現在の坂戸市)に生まれました。13歳で上京して渋沢栄一の書生となり、16歳のとき渋沢栄一が設立した王子製紙株式会社の前身である抄紙会社に入社しました。これより平三郎と製紙業との関係の第一歩がはじまったのです。

平三郎は、欧米先進国の新しい技術を学び、日本で最初の木材パルプ製造を可能にしました。そのため、国内の豊かな森林資源を求めて北上し、樺太(サハリン)に樺太工業会社を設立しました。
さらに、電力開発の必要性に気づき、北海道の釧路原野に北海道興業会社をおこしました。それは阿寒湖の豊富な水を利用した水力発電事業でしたが、これによって開拓民に電気が供給されたのです。人間らしい生活の基盤が与えられた釧路地方の人たちは、大きな喜びを感じたのです。

(2)埼玉県における北方領土返還要求運動

北方領土と埼玉県のかかわりは、それほど深くありませんが、県内にもたくさんの団体や県民が返還要求運動に参加しています。それは日本国民として何としても北方領土の返還を実現させ、真の日露友好と世界平和に貢献していかなければならないからです。

1) 埼県民会議の発足まで

「北方領土」の返還を求める運動が全国的に広がりを見せはじめたのは、昭和50年代にはいってからのことでした。本県内においては、全国的組織を持つ団体などを中心に返還要求運動が展開されました。そして各都道府県に「県民会議」や「協議会」の結成が相次ぐなかで、埼玉県にも県民会議の発足を求める声が日増しに高まっていきました。
そうした声に呼応するかのように、埼玉県議会では「北方領土早期返還に関する意見書」を採択し、国に対して強く要請を行いました。

本県の県民会議発足に対して、大きな影響を与えたものに「北方領土返還要求運動連絡協議会(北連協)」(北方領土の返還を求める団体による全国協議会)があります。北連協の結成に努力され、初代議長として活躍されたのが故大友よふさん(当時、全国地域婦人団体連絡協議会会長)です。大友さんの北方領土返還への強い信念と情熱は、本県の関係者にも広く影きょうをおよぼしていきました。

このようななかで、最初に結成準備会が開かれたのは1984年(昭和59年)5月のことでした。県内の婦人団体、青年団体、経営者団体そして労働団体の代表による意見の交換が行われました。これを機会に、以後活発な協議が繰り返されました。

2) 県民会議の結成

以来2年間の月日を要して、多くの団体、個人の賛向を得ながら本県にも県民会議の結成を見ることができました。
このように長い時間を必要としたのは、次のような基本的意見の統一が必要だったからです。

  1. 北方領土返還要求運動は、今日の平和を維持しつつ決して武力や暴力にたよらない、日ソ間の話し合いによる解決を目ざすものであること。
  2. この運動は、日ソ両国が真の友好国となるための平和運動であること。
  3. 四島一括返還をねばり強く進めていくこと。
  4. さまざまな団体、個人の協議会であるため、おたがいの立場を尊重し息の長い運動としていくこと。

このようにして意見の統一をはかり本県にも「北方領土返還要求運動埼玉県民会議」が組織され、1986年(昭和61年)2月1日、浦和市において盛大な結成大会が開催されました。

(3) 北方領土返還要求運動都道府県民会議

1.名称
北方領土返還要求運動埼玉県民会議
2.設立年月日
昭和61年2月1日