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皆さんは、「北方領土」という言葉を聞いたことがありますか。北海道の東の海に連なる歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島の島々を北方領土といいます。これらの総面積は5,003km2あり、島根県の面積(6,708km2)の75%にあたる広さを持っています。しかし、この北方領土も経緯は違いますが、私たち島根県にある竹島と同じように、現在、ロシアに法的根拠なく占拠されています。

この章では、島根県と北方領土とのかかわりについて調べて見ましょう。

島根県出雲大社の写真

(1)島根県と北方領土のかかわり

1) 津和野藩と北海道

青函トンネルの開通をみた今日とは違い、冬の津軽海峡は波も荒く交通が不便な時代の北海道は、島根県から地理的にも離れた、遠い島のように思われていました。
ところが、この島根県にも早くから北海道の測量や開発に、めざましい活躍をした人たちがあるのです。
古くは江戸時代に、江戸と北海道間の航路の測量にあたった堀田仁助や、幕末になって北海道の開発と警備の重要さを将軍に申し出た西周などがそうです。

明治時代になってからも、津和野藩からはるばる札幌農学校へ入学し、卒業後、北海道の支庁長・参事官を務め、宮崎県知事・島根県知事を歴任後、初代の札幌市長に招かれ敏腕を振るった高岡直吉と、その弟で、同じく札幌農学校卒業後、北海道大学の先生となり、後に同大学の総長になった高岡熊雄は、学者の立場から北海道の農業開発に大きな功績を残しました。

このように江戸時代から、北海道の開発に関係した人たちに、津和野藩士やそれにゆかりのある人が多いということは、興味あるところです。
これは、堀田仁助が活躍した頃、津和野に藩校養老館を創立し、人材養成の基礎を確立した第8代藩主亀井矩賢、また、幕末の藩主であった亀井茲監の存在が大きいと考えられます。津和野藩第11代藩主亀井茲監は、その頃のわが国をとりまくロシアとかヨーロッパ諸国の動きに深い関心を持ち、1868年(明治元年)には明治政府に北海道開拓に関する建言書を提出し、その後の北海道開拓の根本を確立したといわれています。

皆さんもよく知っているように、津和野町は島根県の最も西の端にあり、北海道とは遠く離れている町です。津和野藩がどのようにしてこの時代に、北海道の開発と深くかかわりを持つようになったのでしょう。

2) 堀田仁助の活躍

おそらく皆さんの中には、「堀田仁助」という名前さえこれまで聞いたことがないという人が多いだろうと思います。
この堀田仁助という人は、1747年(延享4年・1745年生まれとする説もある。)に、当時の津和野藩士であった堀田嘉助の長男として広島で生まれ、小さい時の名は兵之助と呼ばれていました。

父の嘉助が津和野藩の役人を務めており、彼も13歳の若さで役所の記録係を命じられました。間もなく津和野へ帰ってからは、勘定所の会計係となったのです。これは、仁助が小さい頃から計算に優れ、数学や天文学に興味を持っていたからでした。このことが津和野藩内だけでなく、やがては幕府の役人にも認められるようになり、1783年(天明3年)には幕府から天文学研究員として召しかかえられることになりました。やがて、天文学を応用して暦を作成した功績により賞を受け、ますます重く用いられるようになったのです。

その頃、幕府にとって最も重要な問題に考えられていたものの一つが、北海道の警備でした。そのため幕府は、江戸と北海道方面との直接航路を開く必要に迫られ、その測量作業を仁助に命じたのです。この命令を受けた仁助は、1799年(寛政11年)3月24日に江戸の品川湾を政徳丸で出航し、海上航路の測量を続けて約3か月を費やし、6月20日北海道の厚岸湾に到着したということです。

この間、約600kmの航路をどのようにして航海し、測量したのでしょう。もちろん、当時のことですから正確なコンパスや地球儀などありません。したがって測量に使った器具は、そのほとんどが仁助の工夫発明によるもので、その苦労は並大抵ではありませんでした。
日本地図の作成で有名な伊能忠敬は、西洋の測量技術を取り入れて全国の沿岸を実測しましたが。仁助はそれより2年も早くから測量を手がけています。しかし、そのことはあまり知られていません。

ここで惜しまれるのは、仁助が苦労して考案した測量器械が、1853年(嘉永6年)の津和野町火災でほとんどが焼失してしまったことです。わずかに焼け残った蝦夷地図、日本地図、世界地図と黄銅製の尺度(ものさし)やコンパスなどが、現在は日本学士院に保存されています。また、津和野町郷土館、太鼓谷稲成神社に展示・所蔵されている仁助作成の「地理測量図、天球儀、地球儀」は、県の文化財に指定されています。このように伊能忠敬に劣らぬ大冒険をなしとげ、大きな功績を残した堀田仁助の名声があまりにも低いのは、大変残念なことです。

日本の歴史の上では、ほとんど無名に近い堀田仁助も、わが島根県にとっては偉大な人物でした。わずか13歳で藩の役人にとり立てられ、その才能を見いだされて天文学や数学に優れた研究を積み重ね、その知識や技術を生かしてわが国で最初の江戸と北海道間の航路の測定を成しとげたのです。さらに1799年(寛政11年)仁助55歳の時には、当時はまだ未踏の地といわれていた北海道東岸の新航路を開設するなど、陸地測量の伊能忠敬と並び称されるほどの功績を残したのです。

(2) 竹島の帰属問題

ところで、私たち県民の身近にも領土問題で大変重要な問題があります。それは、隠岐島の北西約157km沖合に浮かぶ「竹島」の問題です。
現在の竹島は、かつて松島と呼ばれていたようです。竹島が発見された正確な年月は不明ですが、15世紀のはじめから鬱陵島へ往来する者がおり、少なくとも江戸時代初期以前にすでに日本人に知られていたようです。

米子の大谷九右衛門の「竹島渡海由来記抜書控」によれば、1618年(元和4年)に大谷甚吉、村川市兵衛があわび、アシカ漁、木材の伐採を目的として鬱陵島を幕府から拝領し、その寄港地として竹島を利用していたそうです。その後江戸幕府は、朝鮮との間の争いのため、1696年(元禄9年)鬱陵島への渡航を禁じましたが、竹島については日本の領土と考え、渡航は禁じていませんでした。

1883年(明治16年)に日本と朝鮮の通商に関する規則が成立し、多くの漁民が鬱陵島に行くようになり、その途中竹島に寄港していました。明治時代のなか頃からは、隠岐の島民たちが竹島であわび、アシカ等の漁猟に従事していました。かつて竹島で漁をしていた人が今も隠岐に住んでおり、その頃の話を聞かせてくれます。

1905年(明治38年)政府は閣議において同島を正式に竹島と命名し、島根県の所管と決定して領土権の確立を宣言したのです。
ところが、1952年(昭和27年)、当時の李承晩韓国大統領が、海洋主権宣言、いわゆる李ラインを一方的に宣言し、竹島もこの李ライン内にふくまれると宣言しました。さらに、1978年(昭和53年)韓国は、竹島問題未解決のまま領海12カイリを実施し、以後、竹島周辺12カイリからわが国の漁船を締め出しました。

現在竹島には、韓国が灯台、見張り場、兵舎、ヘリポート等を築き、警備員を常駐させ法的根拠のない占拠を続けています。
竹島近海は、北方領土周辺と同じように暖流と寒流の接点になっているため、魚が回遊して、その種類や数量がとても豊富で、島根・鳥取両県はもとより日本海沿岸の漁民にとって重要な漁場となっています。しかし、いまだ竹島問題を平和的に解決するには至っていません。

(3) 島根県における北方領土返還要求運動

島根県は、竹島の領土権の確立という問題をかかえていたために、北方領土への関心度はあまり高いとはいえませんでした。そのため、県内での北方領土返還要求運動は、各団体が独自に研修会、街頭宣伝を行う程度でした。

全国的には、1965年(昭和40年)頃から返還要求運動が盛り上がり、返還要求運動県民会議というような組織が次々と誕生しましたが、島根県においては北方領土返還要求運動のみの県民組織をつくることには県民の一致した意見の統一が得られませんでした。

しかし、1986年(昭和61年)になって、竹島と北方領土を包括して返還要求する県民組織をつくったらどうかという動きが出てきました。そこで、青年団、婦人会等6団体が集まり、設立準備会がもたれ、1987年(昭和62年)1月30日に12団体による発起人会の開催となりました。この発起人会の呼びかけにより、青年、婦人、漁業、農業、経済関係など県内45団体が加入し、3月11日に竹島・北方領土返還要求運動島根県民会議が結成されました。

(4) 北方領土返還要求運動都道府県民会議

1.名称
竹島・北方領土返還要求運動島根県民会議
2.設立年月日
昭和62年3月11日