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静岡県は、1855年(安政元年)2月7日、下田市の長楽寺で、日本とロシアが両国の領土問題をとりきめた「日露通好条約」(下田条約ともいわれている)が調印された地であり、政府が定めた「北方領土の日」も、この日露通好条約の調印された日にちなんでいます。また、当時条約締結を求めてロシアの人たちが乗ってきた「ディアナ号」が条約交渉中に発生した大地震により破損、沈没したため田方郡戸田村の港で「ヘダ号」を建造するなど、多くのかかわり合いをもっています。

静岡県富士山の写真

(1)静岡県と北方領土のかかわり

1) 日露通好条約締結の経過

条約締結を求めるロシア全権プチャーチン提督の乗艦するディアナ号は、1854年(安政元年10月15日)下田に入港しました。第1回の条約締結交渉が福泉寺において日本全権筒井肥前守、川路左衛門尉らとの間で開始されましたが、不運にして翌日、安政の大地震が発生し、下田は壊滅的な被害をうけました。プチャーチンは、ディアナ号が大破しているにもかかわらず、津波により流された人々を救助し、軍医と部下を上陸させてけが人の手当てにあたらせました。また、幕府はプチャーチンに必要物資を供給したほか、破損した船の修復のため西伊豆の戸田へ回航中に沈没したディアナ号の代船として、ロシアへ帰国のための船の建造を許可しました。これが我が国の西洋造船技術を学ぶ端緒を開きました。

条約締結の交渉は、このような非常時の中で第二回、第三回は玉泉寺で、第四回、第五回は長楽寺に場所を移して続けられ、1855年(安政元年)2月7日、長楽寺において日露通好条約が調印されました。

2) ヘダ号の建造と戸田村の日露友好

戸田村の130年間にわたる日露友好関係は、安政の大地震が奇縁となりました。
使節プチャーチンは、大地震による津波のため艦底を破損したディアナ号の修理の場所を戸田に決め、戸田港へ向かいましたが、途中暴風に遭い、沿岸漁夫の命がけの救援も空しく、ディアナ号は富士市沖合で沈没してしまいました。幸い乗組員には1名の死者もなく486名全員が上陸しました。これは、プチャーチンの沈着守行動と日本人漁夫の献身的救助によるもので、永く賛美されています。

一行は、陸路戸田村に入り、宝泉寺と本善寺のほかに長屋4棟を急造して宿舎としました。これから半年間、戸田村民とロシア人との友好関係が始まります。遭難した人々に対し、村民は誠意をもって何かと世話をし、協力しました。

艦を失ったプチャーチンは、帰国のための船の建造を幕府に願い出ました。ここに、ロシア人の設計と指導による西洋型船を、日本として初めて戸田で建造することになりました。これまでの和船と異なり初めての体験で、戸田の船大工や近郷の船大工はたいへん苦心しました。プチャーチンは完成した船に、戸田村民への感謝をこめて「ヘダ号」と命名しました。使節以下47名は、この「ヘダ号」に乗船し、他の人たちも、ほかの船で全員ロシアへ帰国しました。

その後、ロシアの軍艦や、プチャーチンの娘オルガさんも来村しました。戸田造船郷土資料博物館では、プチャーチンの遺品や造船関係資料を展示しています。

3) 本県と北洋漁業とのかかわり

焼津港をはじめとする各漁港から、本県の漁船も北洋漁業に参加しています。しかし、北方領土問題が未解決であるため、北洋漁業にも多くの困難が伴っているのが現状です。
また、北方四島にある資源の多くは、本県のいろいろな産業にかかわりを持っています。その意味からも、北方領土の一日も早い返還が待たれています。

(2) 静岡県における北方領土返還要求運動

北方領土返還要求運動は、当初、それぞれの民間団体の人たちが個々に運動を行っていましたが、より強力に世論を盛りあげ、一日も早い返還を実現するために、この運動を進めていた団体の人たちを中心に、県民会議結成の機運が高まってきました。

一方、200カイリ漁業水域を各国が定めたため、漁業を中心として多くの問題が生じてきました。これらに関係した団体の人たちが話し合いを重ねていくうちに、漁業、中小企業、青年、婦人、労働などの各団体および各自治体が中心となって、県民会議結成のための発起人会が誕生しました。

おりしも、国が「北方領土の日」を設定した昭和56年2月7日、下田市では「北方領土の日下田の集い」が開かれました。
この集いで、県民会議の設立に向けて、発起人代表の決意表明があり、翌57年4月27日、県内59団体の参加のもとに設立総会が開催され「北方領土返還要求静岡県民会議」が発足しました。

(3) 北方領土返還要求運動都道府県民会議

1.名称
北方領土返還要求静岡県民会議
2.設立年月日
昭和57年4月27日