栃木県
-あなたのまちと北方領土-
北方領土とは、北海道本島の東北に連なり北海道の行政区域である歯舞諸島、色丹島、国後島及び択捉島の四つの島のことで、これらの島は私たちの父祖が開拓した日本固有の領土です。しかし、1945年(昭和20年)8月以来40数年間、ソ連(現在のロシア)に法的根拠なく占拠され続けています。
その北方領土の総面積は5,003km2で、栃木県の面積6,408km2の約78%に相当する広さを有しています。しかも、豊富な資源と海流の影響による比較的温暖な気候にも恵まれ、戦前は7村が置かれ、約17,000人の人たちが明るく楽しい生活をしていました。
しかし、戦後、長年住み慣れた北方の島々から強制引き揚げを余儀なくされ、根室市を中心に北海道本島や本州に引き揚げてきた人たちは、故郷へ自由に墓参りもできないつらい日々を送っており、その苦しみは、はかり知れないものがあります。
(1)栃木県と北方領土のかかわり
1) 北方領土と千島列島
栃木県は、海に面した千葉県や茨城県と違って、北方領土とあまり深いかかわりはありませんでした。
しかし、第2次世界大戦中は本県からも約500人の人たちが北方領土や千島列島(クリル諸島)に行ったといわれています。
Y・Hさんは、北方領土に最も近い千島列島のウルップ島(得撫島)と北方領土の択捉島で飛行場の建設工事に従事していました。北方領土と千島列島を比較して次のように話しをしてくれましたので紹介しましょう。
「私は、1943年(昭和18年)千島列島南端のウルップ島に渡り飛行場の建設工事に従事しました。ウルップ島以北の島々は、白夜の夏は台風の終点として、時々風速50m以上の強風が吹き荒れ、3m先も見えない濃霧の日も多く、冬になると一日のうち、明るいのは3時間くらいで気温も零下30度以下、ツンドラ地帯もはい松もすべてが雪におおわれてしまいます。キツネと大ネズミが深い穴にすむ以外生物はおりません。まして、人の住める状況ではありません。折角作った飛行場もほとんど使用できませんでした。ただ海岸を登ったところにロシア正教の墓標がぽつんと建っていたのが印象に残っています。
しかし、海峡を一つ隔てた南の北方領土の択捉島は、海流の関係で気候も良く、水産資源はもちろんのこと森林、農産物、地下資源が豊富で水もおいしく、村には多くの日本人が住んでいました。飛行場の滑走路の延長工事のとき、50cmほどの墓石が数基あったので、移動して安置しました。墓石に刻まれていた年号は、江戸時代のものでした。」
これらのことからも、北方領土は非常に貴重な島々であり、昔から私たちの祖先が住んでいた事実がわかります。
(2)栃木県における北方領土返還要求運動
栃木県においては、北方領土との歴史的なかかわりが薄かったこともあって、北方領土への関心度は、他県と比較して、決して高いものとは言えませんでした。しかし、1981年(昭和56年)1月、政府が2月7日を「北方領土の日」と定めたことにより、全国的に返還要求運動が活発になりました。
本県でも、それまで地道ながら独自に運動を続けていた青年、婦人、労働、農業、商工等諸団体の人たちが、おたがいに協力して運動を活発にするための組織づくりに取り組み、1981年(昭和56年)10月4日に県民会議の設立発起人会を5団体で組織して、県下のいろいろな団体に参加を呼びかけました。そして、これらの人たちの努力により、翌年の1982年(昭和57年)2月7日に、67の団体が参加して「北方領土返還要求運動栃木県民会議」が結成されました。以来、この県民会議が本県における運動の推進母体となっています。
(3) 北方領土返還要求運動都道府県民会議
- 1.名称
- 北方領土返還要求運動栃木県民会議
- 2.設立年月日
- 昭和57年2月7日
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