富山県
-あなたのまちと北方領土-
(1)富山県と北洋漁業
1) 北洋漁業とは
今日、オホーツク海からベーリング海にかけて、我が国を中心にロシア・アメリカ・カナダなど国際的なかかわりのなかで展開されている漁業を「北洋漁業」と呼んでいます。これを歴史的な流れからみると、大正の中ごろまでは「露領漁業」と呼んでいました。当時は露領の沿岸で、建網を使ってさけ・ます・にしんなどを獲っていたからです。大正の中ごろからは、さけ・ますの沖取り漁業が始まり、加えてかに工船漁業、北千島を根拠地とするさけ・ます流網漁業、たら漁業などの各種漁業、さらにアリューシャン、ブリストル湾での底曳網漁業などが盛んになってきて、それまでの露領漁業と合わせて「北洋漁業」と呼ぶようになりました。
2) 越中衆の北洋漁業への進出
第2次世界大戦前の露領漁業やその発展としての北洋漁業は、その起源を樺太漁業とのかかわりでとらえると古く藩政時代にまでさかのぼることができます。しかし、それは明治37・38年の日露戦争での我が国の戦勝を起点として、大正から昭和にかけて大きく発展、展開してきたものです。そして、「越中衆」と言われた富山県人の北洋漁業への進出も、明治初年以来約100年に及んでいます。
富山県で遠洋漁業の必要性を力説したのは、慶長年間以来代々神通川以東の浦十村を治めた生地(現在の黒部市)の田村家の第7代田村前名であり、1818年(文政元年)のことでした。
「北洋漁業は樺太を足場に始まった」と言われています。自営者として記録が明らかになってくるのは明治に入ってからで、1880年(明治13年)「サガレン島出稼漁業者寄合」が結成され、全国から13名が参加しました。この時富山県からは新湊市(現在の射水市)の米田六四郎がただ一人これに参加し、樺太漁業の開拓者となりました。沿海州漁業へは、1887年(明治20年)ごろから新湊の人達が出漁(買漁・密漁)しました。
カムチャッカへの進出は、1899年(明治32年)ごろとされ、その先べんをつけたのは海老江村(現在の射水市)の竹内諭治でした。
1905年(明治38年)9月5日、日露講和条約(ポーツマス条約)が結ばれ、その第11条で初めて条約上の権益として日本人の露領漁業権が明文化されました。これを受けて1907年(明治40年)7月28日、日露漁業協約が調印されました。こうして安心して出漁できるようになったので露領漁業を目指す漁業家が続出し、1908年(明治41年)沿海州水産組合期成同盟会が組織されました。これが1909年(明治42年)には露領水産組合に発展し、富山県には1910年(明治43年)1月9日にその支部ができました。初代支部長は、先の新湊の米田六四郎が務めました。こうして組織的な動きのなかで相互に協力して出漁できる体制が整って、以来富山県は1932年(昭和7年)まで大きな勢力を形成しました。
さらに、富山県は1909年(明治42年)からオホーツク海のたら釣漁業を興し、1913年(大正2年)から民間に出漁させました。これには、富山県水産講習所の練習船高志丸が指導的役割を果たしました。1920年(大正9年)には、富山県水産講習船呉羽丸で、海水を利用したかに缶詰製造試験に成功し、ここに工船かに漁業を開拓しました。さらに1932年(昭和7年)に露領漁業が日魯漁業株式会社へ大合同された後は、北千島さけ・ます流網漁業や定置網漁業へ積極的に進出しました。
このように、富山県の露領漁業や北洋漁業へのかかわりは、全国的な動きと関係しながらも時にはこれをリードしてきました。そこには“越中衆”と言われた富山県人の困難に耐え、それに命がけで立ち向かっていく進取の気性と粘り強さを感じ取ることができます。
1952年(昭和27年)から再開された第2次世界大戦後の北洋漁業は、日ソ漁業条約や日米加二国漁業条約とのかかわりで展開される複雑な国際漁業となりました。富山県でも、かつての新湊、東岩瀬(現在の富山市)を二大中心とするものから、県東部の魚津市、生地、芦崎(現在の入善町)を中心とするものに変わり、また、1953年(昭和28年)に魚津に、1955年(昭和30年)には生地に、それぞれ鮭鱒組合が結成されて今日に至っています。特に、近年の200カイリ問題のなかで厳しい減船体制がとられ、新しい活路を求めて懸命の努力が続けられています。
(2) 富山県と北方領土とのかかわり
1)出稼ぎの背景
富山県の海岸線は大変短く、その割には漁民は非常にたくさんいました。大正初めごろには、海岸線約4km当たりの漁民数は716人で、これは全国平均の2倍以上でした。したがって、ひとたび沿岸漁業が不振になると、漁民の生活の困窮はその極に達しました。こうした状況は早くも1887年(明治20年)代後半より現れ、とりわけ魚津浦を除いて定置網のほとんどなかった下新川郡の漁村に強く現れました。
また、沿岸漁村を疲弊させ、漁民の生活を一段と困窮させたものに、毎年のように襲う高波と火災がありました。高波は、とりわけ海の深い県東部沿岸に大きな被害をもたらしていました。火災は、県内では新湊町、東岩瀬町が顕著でしたが、沿岸漁村で毎年のように繰り返されていました。こうした高波や火災による被害もまた、沿岸漁業の不振と相まって、零細漁民を遠く北海道、樺太、さらには北方領土や北洋漁場へと向かわせました。
こうした漁村の窮状を打開するため、富山県では、北海道への移住と北洋漁業や北海道、樺太へ、さらには北方領土への出稼ぎ漁業の奨励を行いました。これには、富山県水産講習所、富山県水産会などの積極的な指導、助言がありました。
北方領土は、こうして根室、歯舞、羅臼方面へ渡った先人達の命がけの努力のうえに次第に開かれていきました。
2) 北方領土へのかかわり
ア. 北方領土に渡った富山県民
さて、北方領土には、どれくらいの人々が渡島していたでしょうか。北方協会(現在は、北方領土問題対策協会)が公益社団法人千島歯舞諸島居住者連盟(略称:千島連盟)に委託して作成した「北方地域元居住者名簿(昭和42年)」によると、第2次世界大戦終戦時、富山県から202世帯、1313人の人が渡島していたとみられています。99%が歯舞諸島、色丹島に集中し、とりわけ歯舞諸島に集中しています。また歯舞諸島の中では、志発島に多く渡っていました。
このように富山県人が歯舞諸島に集中したのは、ここが根室に比較的近く、1877年(明治10年)代後半から根室へ渡った越中衆によって開かれましたこと。また、歯舞諸島でこんぶ採取、漁業を営むには、こんぶ干場の所有権か借地権を有し、歯舞、根室漁業組合の組合員であることが必要でしたが、出稼者たちは、富山県出身の道人から有利に干場や権利を借りることができたからです。
イ. 富山県内の様子
元島民は、ほとんど黒部市と入善町に集中しており、世帯数、人数ともに95%に及んでいます。黒部市では生地、入善町では芦崎地区に多く引き揚げて居住し、地域的には黒部川の河口をはさんだ沿岸漁村に集中しています。魚津からは経田地区が主でした。黒部市出身者は志発島中心に多楽島、水晶島など歯舞諸島に広く分布しているのに対し、入善町出身者は、志発島へ集中的に渡っていました。
渡島年代を歯舞諸島についてみると、大正の中ごろから1935年(昭和10年)までに渡った世帯が多くみられました。
3) 黒部市生地漁民とのかかわり
最初のかかわりは、北海道への出稼ぎという形でした。1883年(明治16年)石田村(現在の黒部市石田)村長の宮崎広八郎が、生地村の漁民に対して、北海道への出稼ぎを奨励して歩きました。当時の生地の漁民は、漁業だけで生活していました。地曳網だけの沿岸漁業は不振で、時折大漁になっても、現在のように流通のしくみや冷凍施設などが整備されていなかったので、魚津へ運んでも値段が安く、年中貧乏な村でした。
宮崎広八郎の説得に応じて、利尻島方面へ出稼ぎしたところ、かなりの収入がありました。これがきっかけとなり、利尻・礼文の両島、小樽、函館、釧路、根室などほぼ北海道全域に出稼ぎに行くようになり、さらに歯舞諸島、国後島、択捉島などへも渡りました。1890年(明治23年)ごろになると、新湊・魚津・入善の漁民たちも出稼ぎに行くようになりました。
毎年3月ごろ、現地の親方(網元・浜の地主・こんぶの問屋を兼ねていた)に雇われて漁業に従事し、10月ごろ郷里へ帰ってくると、当時のお金で60円もの収入がありました。このお金は、一家5人が半年遊んで生活できる額でした。
1906年(明治39年)ごろより、根室、羅臼、歯舞諸島方面のこんぶ漁が盛んになりました。こんぶ漁には、こんぶを干す浜(干場)が必要で、その広さが直接収入に影響しました。その広さしかこんぶは採取できないからです。北海道では、富山県の出稼漁民のことを、「出面」と言って歓迎してくれました。「越中衆は、よく働く」「信用できる」と言って、一つの漁場を越中衆だけにまかせてくれたので、根室、羅臼、歯舞諸島(特に多楽島)や色丹島には越中村ができました。その中には、定住し、やがて独立して親方になる人も現れました。この親方をたよって、富山県からたくさんの漁民が出稼ぎに行くようになりました。家族ぐるみで移住し、主としてこんぶ漁に従事しました。生地小学校では、毎年4月に大量の転出生があり、10月には逆にたくさんの転入生があって、その対応に悩まされました。
大正時代になると、歯舞諸島や色丹島へ定住する漁民が増えてきました。根室や羅臼の親方から資材や浜を借りて、こんぶ漁場を開拓していきました。また、国後島、択捉島の外、千島列島や樺太近海のさけ・ます漁に進出する人たちも数多く現れました。
富山県出身の親方は、「同じ郷土の人間である」という信頼関係が伝統的にあったので、資材や資金、浜を快く貸してくれ、生活も安定しました。
このように、根室、歯舞諸島のこんぶ漁は、富山県、特に生地出身の漁民によって開拓され、発展したと言っても過言ではありません。
(3) 富山県における北方領土返還要求運動
以上のように、富山県は北方領土とたいへん深いかかわりあいをもっていました。それだけに、この北方領土を一日も早く日本に返してという願いは、日増しに高まっています。
1) 千島連盟富山支部と復帰促進協議会の結成
北海道に次いで北方領土の元島民が多い富山県では、県内に住む居住者により1958年(昭和33年)に千島連盟富山支部が結成され、早くから返還要求運動が進められてきました。
また、昭和44~45年ごろには、北洋漁場において我が国の漁船がソ連(現在のロシア)にだ捕される事件が相次ぎ、1970年(昭和45年)4月、富山県の漁民団体と沿岸市町村が「これ以上我慢できない」と抗議に立ち上がり、「北方領土復帰北洋安全操業促進富山県大会実行委員会」が結成されました。その後、1979年(昭和54年)7月には、富山県北方領土復帰促進協議会と改称され、同年10月、ニューヨークの国連本部へ北方領土の早期返還実現を要望するなどの運動を展開しました。
2) 県民会議の設立
この間、富山県内の民間団体も、それぞれ独自に、活発な返還要求運動を展開してきました。県や市町村では、1980年(昭和55年)2月に県議会で「北方領土問題の解決促進に関する意見書」が全会一致で議決されたのをはじめ、県内35全市町村議会でも同様の意見書が議決されました。このような動きの中から、個々の民間団体の運動を広く結集し、行政機関と一体になった返還要求運動を全県的に展開するために、県民会議を設立しようという気運が高まってきました。そして、北方領土の返還を求める「祈りの灯」を納沙布岬に運ぶための全国縦断キャラバン隊(昭和56年6月)の受け入れにあった民間団体と行政機関とが中心になり、1982年(昭和57年)1月20日、県内25団体の参加の下に、待望の「北方領土返還要求運動富山県民会議」が設立されたのです。
(4) 北方領土返還要求運動都道府県民会議
- 1.名称
- 北方領土返還要求運動富山県民会議
- 2.設立年月日
- 昭和57年1月20日 (協議会発足 昭和44年8月1日)
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