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最上徳内は北方探検の先駆者であり、今の村山市楯岡の出身です。徳内は江戸後期、近藤重蔵らと択捉島にわたり「大日本恵登呂府」の標柱を建て、日本の領土であることを初めて内外に示しました。

1807年(文化4年)、ロシア船の択捉島襲撃事件のとき、内保で番人をしていた石井長内、紗那会所で御用酒造りをしていた上林専太郎(いずれも今の鶴岡市大山の出身)がこの事件にまきこまれ、命からがら逃げてきたことが「上林専太郎日記」などに載っています。さらにこの襲撃事件で庄内藩からもたくさんの藩兵が蝦夷地警備に出ています。

また、山形県が北海道に近いこともあって、明治、大正、昭和にかけて多くの漁民が北海道に渡っています。

山形県山寺立石寺の写真

(1) 山形県と北方領土のかかわり

1) 北方の探検家最上徳内

北方探検で活躍した人に、最上徳内がいます。
最上徳内は、1755年(宝暦5年)、出羽国楯岡村(現在の村山市楯岡新町)の生まれで、武士になろうと27歳の時江戸に出ました。
向学心に燃える徳内は、医学、数学、天文、地理、測量、航海術と幅広い分野にわたって学問を修めました。

そのころの蝦夷地情勢は、ロシアの勢力が千島沿いに南下し、わが国をおびやかしていました。
当時幕府は、蝦夷地の経営を松前藩に任せていましたが、松前藩は、ごく限られた領地(北海道本島南部)を統治するだけで、残る蝦夷地の開発や、ロシアの南下に対する防備には無策でした。
こうした状況を知った幕府は、蝦夷地開発とロシアの情勢を調査するため、1785年(天明5年)第1回蝦夷地見分隊を派遣しました。

最上徳内は、彼の師である本多利明のはからいによって竿取人夫(測量助手)に採用され、普請役青島俊蔵の従者として松前から厚岸までの東蝦夷地調査にあたりました。
「竿取り」という低い役目にもかかわらず、探検に必要とする知識を身につけていた徳内の働きはすばらしくこの活躍が認められて、翌年の1786年(天明6年)には幕府から東蝦夷地巡検使の先陣役を命じられました。

徳内は、単身松前を出発し、厚岸から国後島、択捉島に渡り、さらに北に目を向け、日本人未踏の島ウルップ島に上陸し、島の状況およびロシア情勢の探索にあたりました。
この調査のあい間には、アイヌ語の研究を続けています。これは、アイヌがロシア人と仲よく交易を続けていることを見聞きしていたので、アイヌからロシアの情報を得るためでした。
また、蝦夷地開発には、アイヌの力が必要であることを痛感し、禁止されていたにもかかわらず、アイヌに日本語を教え、その教育にあたりました。

1786年(天明6年)10月、幕府に政変が起こり、蝦夷地調査が中止されましたが、1789年(寛政元年)国後島と根室付近の目梨でアイヌ暴動が発生しました。
幕府はこの調査のため青島俊蔵らを蝦夷地に派遣しました。アイヌ語に精通していた徳内は、通訳として3回目の蝦夷地渡航を行いました。
アイヌの暴動は、長年松前藩の圧制下におかれていた不満が爆発したものでした。

調査を終えた徳内は、1790年(寛政2年)松前、千島、蝦夷地、樺太、ロシア、満州などについて、これまで調査した事がらや聞き知ったことを3巻の「蝦夷草紙」にまとめました。これは、当時の北方の情勢を知るうえで貴重な資料であり、幕府の高い評価を受けた徳内は、普請下役に任じられ初めて武士の身分となりました。

そこで幕府は、蝦夷地の開発と北方の防備にますます強く関心を持つようになりました。さらに、アイヌ暴動以来アイヌの心が日本を離れロシアに傾くことを警戒し1791年(寛政3年)、蝦夷地巡見隊を派遣、普請役に昇進した徳内は、この巡見隊の長となって4回目の蝦夷地調査にあたりました。
この調査は、これまで行われてきた請負商人の不正を正すとともに、アイヌの救済を図るためでした。

さらに徳内は、1798年(寛政10年)、幕府の支配勘定方近藤重蔵を択捉島に案内し「大日本恵登呂府」の標柱を建て、日本の領土であることを明らかにしました。

その後も、北方の防備、蝦夷地開発、アイヌの救済のため情熱を傾け、1808年(文化5年)までの間、前後9回にわたって蝦夷地に渡り活躍しました。

最上徳内は、近藤重蔵、間宮林蔵とともに北方の三傑といわれています。ドイツが生んだ偉大な学者シーボルトは、18世紀における最もすぐれた日本の探検家であると徳内をほめたたえ、さらに、徳内の作成した「北方地図」や「アイヌ語の研究」はヨーロッパで高く評価されました。

2) 庄内藩と蝦夷地

ロシアの使節ラックスマンが1792年(寛政4年)根室に来航し、1804年(文化元年)にはレザノフが長崎に来航して日本に通商をもとめましたが、江戸幕府は鎖国政策をたてにいずれも拒絶しました。それ以後北方での緊張が強まってきました。

ロシア船2隻が1807年(文化4年)4月択捉島に来航し、内保の番屋を襲い、さらに紗那会所を焼き払いました。このとき内保の番人をしていた大山(現在の鶴岡市)出身の石井長内は数人とともにロシア側に捕らえられ40日あまり船中に閉じこめられましたが、船中で聞いたロシア語を日本語に訳したメモを持って、故郷の大山に逃げ帰ることができました。また6年間紗那会所の御用酒造りをしていた同じ大山の上林専太郎は山中に逃げ、ふきやゆりなどを食べて飢えをしのぎ大山に帰り、この事件を記録した「上林専太郎日記」を残しました。

この択捉島襲撃事件に対応するため、幕府は東北地方の5藩に対して蝦夷地警備を命じました。庄内藩は1807年(文化4年)6月、327人の藩兵を5隻の船に分乗させ、用金800両、米600俵、塩、みそなどとともに酒田港を出発させました。箱館(現在の函館)に到着した庄内藩兵はただちに福山(現在の松前)警備にあたりました。その後はロシアの動きがなかったので庄内藩兵は同年9月庄内に帰りました。

しかし、1854年(安政元年)の開国後、ロシアの南下政策が強化されたので、幕府は東北地方の諸藩に蝦夷地の分割警備を命じました。庄内藩は1859年(安政6年)西蝦夷地の統治と警備にあたることになりました。

3) 屯田兵村と漁業移住

北海道の開拓、北方の防備、失業した士族の授産などのために、1874年(明治7年)北海道に屯田兵制度がつくられました。そして翌年最初の士族屯田兵村として札幌の琴似兵村ができました。

屯田兵村の中で、とくに東海岸の警備に重点がおかれたのは根室の和田兵村と厚岸の太田兵村でした。太田兵村は最後の士族屯田兵村で、1890年(明治23年)開村当時の士族戸数440戸のうち、山形県から移住した士族は石川県の106戸につぐ99戸でした。その99戸は米沢士族が53戸、新庄士族が34戸、そのほか上山などの士族からなっていました。この兵村の生活は毎日長時間の軍事訓練と農作業でした。山形県出身の士族とその家族も多くの困難にめげずがんばり抜いたのです。そして北海道の産業が発達し多くの労働力が必要になってくると、1890年(明治23年)農民中心の平民屯田兵村に切りかえられることになり、翌年からその募集が行われました。

山形県からの漁業移住も北海道に近いため比較的多かったのです。小波渡(現在の鶴岡市)の漁民などはすでに江戸時代から蝦夷地へ出稼ぎに行き、川崎船(当時、沖合漁業などに用いられた比較的大形の和船)に乗って千島や樺太までもでかけました。明治時代以後の漁業移住はとくに飽海郡に多く、出稼ぎ先にそのまま住みついて故郷の家族を呼びよせて移住することが多かったのです。

(2) 山形県における北方領土返還要求運動

1) 県民会議の結成

山形県では、県内における返還要求運動を盛んにするため1980年(昭和55年)12月15日「山形県北方領土返還促進協議会」を結成しました。
それまで、いろいろの団体や個人が個々に返還要求運動を行っていましたが、これを盛り上げ、県民みんなの問題として運動を高めていくため、これまで独自の運動をしてきた青年団体、婦人団体、それに県、市町村などの代表が話し合いを重ね、さらに県内の各種団体にも呼びかけをし、この協議会が誕生しました。

(3) 北方領土返還要求運動都道府県民会議

1.名称
山形県北方領土返還促進協議会
2.設立年月日
昭和55年12月15日