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(1) 秋田と北方領土のかかわり

1) 蝦夷地との交易

秋田県と北方領土を含む北海道とのつながりは歴史的に深いものがあります。 まず、奥羽において三代の栄華を誇った藤原氏が1189年(文治5年)源義経をかくまったために頼朝に討伐されます。藤原氏の落武者たちは安住の地を探して津軽海峡をこえました。それが蝦夷地に和人が渡ったはじめであります。それから蝦夷地に渡る人が増えて和人の関心が高まりました。

ポルトガル人である耶蘇会の宣教師ルイス・フロイスが1565年(永禄8年)に京都から外国に送った書簡によると、蝦夷には「法律はなく、天の外、礼拝する物なし。国は、甚だ大にして都より300レグワ(1レグワ約4.9km)あり、彼等の中にゲワ(出羽)の国の大いなる町アキタと称する日本の地に来たり、交易をなす者多し」(以上原文のまま)と述べられています。

「十三往来」には「十三湊にアイヌや日本船が舳先を並べて繁栄を極めたり。」との記述がみられます。十三湊(現在の市浦村十三)は、1062年(康平5年)前九年の役で滅んだ安倍貞任の二男が北の方に落ちのびて、津軽に藤崎城を築き、その子孫安東愛秀の時に岩木川河口十三湊に進出したのにはじまります。

その後、安東氏は海路を利用して勢力をのばし、その活動範囲は北は渡島半島(現在の北海道南西部)から南は越前(現在の福井県北東部)、若狭(現在の福井県南西部)、畿内・熊野地方(現在の近畿地方)にまでおよんでいました。途中の能代、男鹿、土崎、赤尾津(現在の本荘)、象潟の港も利用していたと推測されています。1344年(康永3年)男鹿北浦の日吉社に安倍氏(安東氏)が安全祈願をした棟札や1436年(永享8年)に福井県小浜の羽賀寺修造に貢献した記録などが残っています。

安東氏の秋田地方への定着は14世紀の終わり、下国安東盛季の弟鹿季が秋田の湊(現在の土崎)に入ったのをはじめとしていますが、一方、15世紀の中頃、南部氏との戦いに敗れて蝦夷地に逃れた盛季の子孫は、まもなくそこを離れて山本郡の檜山に入り、その地方を支配するようになりました。この当時、すでに相当数のアイヌの人との交易がなされていたようです。文献には「蝦夷人は丸木船や縄とじ船を操り津軽海峡をこえ、秋田や津軽などに交易にきていた。秋田、津軽、やがては敦賀、小浜の商人なども蝦夷地へ交易のため赴いて行った。」と書かれています。

1613年(慶長18年)、ジェームス一世の親書を携えて来日した英国司令官ジョン・セーリスによると、「彼等(蝦夷人)は、銀や砂金をたくさん持っていて、それらを払って日本人から米やその他のものを買う、米と木綿布を最も欲しがった。鉄と鉛も、日本から来る。」と蝦夷地に関する話を伝えています。 1716年~1743年(享保、寛保年間)には請負商人により、松前へ秋田、津軽、酒田などから米が積みだされ、蝦夷地との関係はいっそう深まっていきました。

2) 国後の乱と加賀屋徳兵衛

一方、18世紀に入ると、南下政策を推進するロシアは、シベリアからカムチャッカ半島を経て、千島列島へ渡ってきました。これは、わが国の国防上大変な問題でしたので、1786年(天明6年)、幕府は最上徳内を蝦夷地探検に派遣しました。徳内は国後島、択捉島にも渡り、地図を作りました。そして、アイヌの人の生活を調査し、蝦夷地の開発にはアイヌの人たちの協力が必要であることを感じ、アイヌの人たちの教育にも当たりました。

それにもかかわらず、1789年(寛政元年)松前藩の圧制に対する長年の不満が爆発し、国後、目梨蝦夷の乱が起きました。この事件で幕府側通詞(通訳)としてアイヌの人と接触し、活躍したひとりが初代加賀屋徳兵衛でした。

徳兵衛の先祖はもともと加賀の国(現在の石川県)の人ですが、蝦夷地に向かう途中、シケにあい八森海岸(現在の秋田県山本郡)に漂着し、八森で結婚し秋田の人になりました。徳兵衛は八森から松前に働きに出かけ、柏屋根室場所の通訳を務め、国後の乱ではアイヌの人から直接事情を聞いて「クナシリ島蝦夷騒動届書」を書きました。徳兵衛の記録によると和人71人が殺害されました。その中に出羽の国(秋田)山本郡2人、由利郡1人の3人の名前が見られます。二代目徳兵衛を名乗る鉄蔵も根室場所でアイヌ語通訳を継ぎ、1816年(文化13年)「イロハ蝦夷言」をあらわして、子弟教育の教材としました。

鉄蔵の弟伝蔵もアイヌ語を学び三代目徳兵衛となり、1841年(天保12年)択捉勤番としてアイヌ語の通訳をし、やがて、松前藩代官所の大通辞役、後に函館奉行所大通辞に昇進しました。年に一度、アイヌの人たちが幕府や松前藩に貢物を納めるオムシャという行事の幕府側訓示はすべて伝蔵がアイヌ語に直して布告しました。「アイヌ語お手本」「アイヌ語辞典」「蛮貊邦人言」などアイヌ語の初心者向け解説書をあらわして内地とアイヌの人の言葉の橋渡しに大きく貢献しています。日本におけるはじめてのアイヌ語辞典、上原熊治郎の「藻汐草」を筆写し、それに400語を自分で追加して今日高く評価されています。

また、伝蔵は、ノツケ場所の支配人に栄進しますが、海岸防備の責任から野付半島から根室を含めた広範な北海道東部の地図を書き、色丹島の地図も作っています。

現在北海道標津中学校では伝蔵の書いた「蝦夷風俗図会」のアイヌ民話が副読本として使われています。 四代目徳兵衛常蔵も蝦夷地に渡りアイヌの人たちとの通訳としてその後を継ぎ、1877年(明治10年)「北海道新道一覧双六」を作っています。

3) ロシア船の択捉上陸と久保田藩

1807年(文化4年)、ロシアの武装船が択捉島に上陸し、幕府の建物を焼き払い、物品を奪い、利尻島では幕府の船に火を放つ事件を起こしました。

急を聞いた幕府は久保田、仙台、津軽、南部の奥羽4藩に蝦夷地警備を命じました。久保田藩には5月24日、松前函館奉行所から「東蝦夷地の内エトロフ島へ異国の大船二艘来候」(以上原文のまま)国後島へも寄り着き、争乱を企てる形勢があるので加勢をお願いするとの急報が入りました。現在、秋田県立図書館所蔵「松前御加勢日記」などによると、久保田藩は即時出陣の用意を整え、翌5月25日に、第一陣として、陣場奉行金易右衛門ほか369人が久保田を出発し、檜山、大館、碇ケ関を経て、津軽三廐から海を渡り6月10日函館に入りました。第二陣は5月27日、松野茂右衛門ほか708人の軍割りをしましたが、実際に出兵したのは220人余で、6月7日能代から船に乗り、悪天候のため遅れて第一陣と合流したのは7月2日でした。第三陣は、久保田領内の海岸警備にあたりました。その後ロシアとの争いはおこらなかったので、滞在期間60数日にして8月12日に現地を引き揚げました。

1854年(安政元年)、幕府は鎖国政策から開国へ向かうことになり、アメリカ・イギリスと和親条約を結びました。さらに同年末調印の「日露通好条約」によって、歯舞諸島、色丹島、国後島、択捉島は日本領土と確定しましたが、この頃、ロシアの南下に危険を感じた幕府は久保田、仙台、津軽、南部、松前の五藩に命じて、蝦夷の主要地に陣屋を設け警備にあたらせました。当時久保田藩の持ち場は神威岬から太平洋の知床岬に至る全部と北蝦夷地樺太のほか礼文、利尻などと定められましたが、幕府にお願いして範囲を狭くしてもらい、増毛、宗谷付近と樺太南部を守ることになり、元陣屋を増毛に置きました。 北方四島を含む島々は白老に元陣屋を置く仙台藩が警備していました。

4) 久保田藩の国後島支配

1869年(明治2年)8月29日、太政官から久保田藩へ「国後郡の支配を仰せつける」との命が下り、国後島は仙台藩にかわって久保田藩が支配することになりました。

今回、秋田県立図書館から新たに「開拓方日誌」が発見されて、国後統治が明らかになってきました。久保田藩は1870年(明治3年)1月19日、戊辰戦争で参謀を務めた介川作美を開拓方主官に任じ、一連の人事を発令しました。第一陣は3月16日土肥文之進ほか5人が函館から陸路をたどり、海を渡って4月18日国後島へ到着し、当日開拓使属官の城戸国之助らから絵図面と書類の引き継ぎを受けて実質的な久保田藩の支配がはじまりました。第二陣は4月9日大貫恭蔵ほか21人が函館から向かいました。本隊の第三陣は5月13日開拓主官介川作美ほか87人が函館から船に乗り、5月27日国後島に到着しました。これには、侍のほか医者、絵描き、大工、鍛冶屋、商人、漁師も加わりましたが、その人たちは坂内(釈加内)陣場、秋田田中、横手など、藩内各地の出身者でした。

当時わが国は、まだ外国に対する警戒心も強く、漁場の見回りもあって、島には多くの詰所が設置されていました。記録によると、トマリに本陣を置き、トウフツ、ツメニテ、シベトロなど11か所に見張番所を設けています。

久保田藩が支配してから、秋田と国後島の交流は深まりました。永福丸吉右衛門は1870年(明治3年)3月20日久保田を出航、4月14日国後へ着いています。同船には秋田郡男鹿北磯(現在の男鹿市)戸賀村6人、塩戸村4人、嘉茂村(現在の加茂)6人、青砂村5人、畑ケ村4人、平沢村2人、南磯船川村2人、脇本村4人、椿村3人、増川村3人、計39人が出稼ぎしたのをはじめ何組も渡っています。

国後は海の幸が豊富でした。「開拓方日誌」によると「1871年(明治4年)5月4日鰊粕積む。7月17日鱒50石積む。7月27日永福丸へトカ昆布150石、住福丸ウエンナイ昆布200石、永安丸フルカマ昆布300石、勢徳丸トヲフツ昆布200石を積む。」とあります。

久保田藩は国後の開墾も奨励しました。川尻文治が畑地を切り開いて褒美にあずかっています。注目されることは「秋田仙北郡久蔵」一家がホンコタンへ移住していることです。ほかにも移住者のいたことが帰藩者の記録から推測されます。

1871年(明治4年)1月13日、久保田藩は秋田藩に改称され、国後島では同年6月11日藩の達しにより、「トマリ会所元傍示杭を秋田藩に認め直した」が、同年8月、太政官令により、開拓使へ引き渡して秋田藩は引き揚げることになりました。

5) 北洋漁業と出稼ぎ

歴史的にみても、秋田の出稼ぎは蝦夷地の交易と北方警備によって広がってきましたが、にしん漁も、それに拍車をかけました。

にしんは、古い時代には秋田の海でも多くとれています。1832年(天保2年)の魚鑑に、にしんは「奥羽蝦夷の海多く出す。近来下総銚子浦、利根の川口にも是を得る。」などと記録があります。「水産事項特別調査農務統計表」によると、1891年(明治24年)内地にしん漁獲高は秋田3,720トン、青森7,226トンとなっていますが、1899年から1900年(明治32年~33年)以降は皆無となっています。 先祖代々にしん漁で生計を立ててきた日本海沿岸の男鹿半島方面、由利郡、山本郡及び八郎湖岸の漁民たちは痛手を被り、新しい漁場を目指し、海流の変化により北進するにしんを追う出稼ぎが本格化しました。

時を同じくして1897年(明治30年)以降、天下の北洋漁業と言われた樺太、カムチャッカ、千島及び沿海州への出稼ぎもさかんになってきました。1930年(昭和5年)の「秋田県郷土史」(秋田師範学校刊)によると、北海道だけで8,235人、樺太3,824人、露領樺太500人、露領沿海州3,075人、計15,634人が働いています。

秋田県出身の作家である有名な小林多喜二の小説「蟹工船」で知られるカムチャッカを拠点にした日露漁業だけでも1941年(昭和16年)には、秋田県から3,949人が出稼ぎに行っていますし、北方全域を含めるといかに多かったかが想像されます。

秋田から北洋漁業への出稼ぎは、海岸部に限らず県内一円にわたっていました。「秋田県出稼小史」(秋田県刊)によると能代、北浦、戸賀、天王、大久保、土崎、秋田、本荘、下川大内、上川大内、鷹巣、大館、扇田、上大野、米内沢、角館、刈和野、大曲、藤木、六郷、金沢、横手、西馬音内、湯沢等に広がっています。

(2) 秋田県民会議の設立と返還要求運動

1) 本県における北方領土返還要求運動のはじまり

「日本の固有の領土として未だ返らない沖縄が南にあるように、北にはソ連に占領されている北方四島があります。」と、日本青年団協議会で、北海道の青年が訴えたのは1966年(昭和41年)3月のことです。その声が全国の青年たちに広がっていきました。

秋田県では、昭和42年度から地域の青年会で北方領土問題が論議され、その後、沖縄返還の具体的な進展が歯舞、色丹、国後、択捉のいわゆる北方領土にも目を向けさせました。そして、全国青年大会を通して署名運動をしました。署名運動の動きは地域婦人会にも見られました。

2) 秋田県議会や市町村の決議

こうした県民の声を反映して秋田県議会は1969年(昭和44年)3月27日、政府に対して「北方領土の早期返還について」意見書を提出する決議を採択します。その後3回の決議を行いました。また、ほとんどの市町村議会において、同じような決議がなされています。

3) 県民会議の設立

北海道、樺太、千島及びカムチャッカ方面への出稼ぎの多かった本県では、多くの人々や団体が早くから返還要求運動を続けていました。しかし、それぞれが取り組みをし、お互いに協力し合い一本化して運動を前進させる状態ではありませんでした。

政府が1981年(昭和56年)1月の閣議で2月7日を「北方領土の日」と定めたことによって、県民会議結成の気運は急な盛り上がりを見せました。そして翌年の1982年(昭和57年)2月7日、秋田県児童会館大ホールに全市町村から約400人が参加し、北方領土返還促進総決起大会を開いて統一組織を作り、第一歩を踏み出しました。

(3) 北方領土返還要求運動都道府県民会議

1.名称
秋田県北方領土返還促進協議会
2.設立年月日
昭和57年2月7日