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(1)福井県と北方領土のかかわり

1) 越前・若狭と蝦夷地との交易

ア.若狭の昆布売

狂言に「昆布売」というのがありますが、そのこんぶは若狭のものということで都で売りに歩きます。蝦夷地の産物であるこんぶが、すでに室町時代に敦賀や小浜を経て京都に運ばれていたことを物語っています。

中世末には、蝦夷の宇須岸(現在の函館)と小浜との間に年3回船の往来があり、にしん・かずの子・干しさけ・シカ皮・タカの羽・こんぶなどがもたらされました。これらは、松前物問屋を通して、江若の山を越え琵琶湖の舟運を利用して大津から京都・大坂(現在の大阪)へ運ばれました。一方、蝦夷地へは、木綿・塩・たばこ・砂糖・藁製品が運ばれました。

江戸時代の初期、これらの交易に当たったのが、越前・若狭の舟持商人です。また、当時日本海を航行した回船は、「北国船」、「はがせ船」と呼ばれるものでした。

イ.北前船

松前藩を含む蝦夷地と若越の諸港とが密接に結ばれるのは、江戸時代中期以後に農業が飛躍的に発展し、蝦夷地産のにしん肥料の需要が増大してからです。
西回り航路が整備されて、蝦夷地や日本海沿岸諸港と瀬戸内海諸港を経て大阪を結んだ回船が北前船です。千石船とか、買船、弁才船ともいわれています。

北前船は、船首の水押が長く突き出し、水切りがよく、帆走性が高くなるように造られていますが、どちらかというと積載能力を重視した構造になっています。
船の大きさは300石~600石積が一般的で、北前船の中には1,500石積を越えるものもあり、それまでに比べて大量輸送ができるようになりました。
帆は、初めは莚でしたが、次第に木綿の丈夫なものに改良されました。

蝦夷地方面への下り荷としては、木綿・たばこ・塩・砂糖・紙・酒・畳表などでした。小浜や敦賀からは縄・莚・ぞうり・石炭・ろうそく、それに、伊勢・近江・美濃の茶が、三国からは、菜種油・笏谷石が積み込まれました。大阪方面への上り荷は、米・大豆・四十物(塩干物)・紅花・青苧・材木、それに蝦夷地の松前物(にしん・にしん粕・干しさけ・こんぶ)などです。航海は、海が荒れる冬を除いて1年間に2往復するのがやっとのことでした。日本海の荒波を乗り越えるため、風や波に左右され、危険も大きいのです。しかし、利益は、大きく1,000石積の船で1年間に約1,000両あったといわれ、船の建造費1,000両は、1年で償却し、次の年からは利益となったのです。

北前船の出現は、敦賀の網屋など若越の諸港に多くの問屋を育成しました。
こうした北前船は、明治の半ばまで続きました。

ウ.ロシア船の択捉上陸の風聞

蝦夷地東部の海産物が、敦賀に初めて入ったのは、1805年(文化2年)で、網屋の太平丸と喜長丸が、にしん・かずの子・白子などを運んで来ました。また、1838年(天保9年)に小浜の古河屋などが、十勝、幌泉からこんぶ6,000石を買付けています。
なお、敦賀から東蝦夷地へ運ばれた物は、瓦、釘などの建築用品や縄・莚などの藁製品、それに日用品などでした。

北前船の往来は、人や物が行きかうとともに、新しい情報や蝦夷地に住むアイヌ人の文化も伝えられました。
1807年(文化4年)ロシア船が択捉島に来航し、住民が乱暴されたとか、住民のあわてぶり、函館奉行の対処の仕方などの風聞について、東蝦夷の国後島、択捉島方面とも交易していた高田屋からの敦賀網屋あて書状から知ることができます。
「蝦夷嶋奇観」は、蝦夷地における風俗を彩色画をまじえて紹介したもので、北前船によってもたらされたものです。

2) 大野藩の奥蝦夷開

ア.大野藩の藩政改革

8歳で第7代大野藩主となった土井利忠は江戸で藩主としての教育を受け、19歳になった1829年(文政12年)初めて大野亀山城に来たのです。そのころの大野藩は多くの借金をかかえ苦しんでいました。この赤字財政をどう立て直すかが青年藩主利忠に課せられた最大の問題だったのです。

1842年(天保13年)利忠は「更始の令」を出し、自ら倹約を率先し、人材を登用して藩政の改革に着手しました。まず、すぐれた人材を養成することが先決であると考えて1843年(天保14年)藩校明倫館を開校しました。また、世界の動きを知る必要を感じ、1840年(天保11年)には蘭学者を招き欧米の事情を聞くとともに、家臣を江戸・京都・大阪に留学させ西洋の実学を学ばせ、1856年(安政3年)に蘭学所を大野に開設しました。

さらに、藩の赤字を減らすために藩内に産業をおこし、それを藩経営の店で販売するという方法を取り入れました。これが「大野屋」で1855年(安政2年)大阪に開設したのをはじめ、のち函館・岐阜・名古屋・三国・福井・織田・今庄など各地に店を増やしました。こうして藩政改革は古いしきたりにとらわれることなくすすめられ、成果を上げました。

イ.蝦夷開拓に燃える大野藩

ペリーやプチャーチンの来航など外国船の出没でわが国の近海が騒がしくなっていた1855年(安政2年)、北方守備の必要をさとった幕府は蝦夷地開拓を全国の諸藩に呼びかけ、希望を募りました。これに対し大野藩では藩論をまとめ、幕府の方針にそって蝦夷地の開拓に参画することを願い出たのです。願書には、「わが藩が諸学問の研究に努めてきました目的はわが国のために役立てるためです。しかも、わが大野は厳寒の地で蝦夷地とよく似ています。領民の体はたくましく寒さに慣れています。この機会にわが国のため、主君のために役立ちたいと願っています」と書いて蝦夷地開拓に熱烈な意欲を示したのです。

幕府の許可を得た1856年(安政3年)大野藩は内山良休を蝦夷地御用掛に、内山隆佐を蝦夷地総督に任命し、総勢30余名からなる探検調査団を組織し、渡島半島の奥地を調査したのです。その結果を幕府に報告し、開拓計画書をそえて幕府の許可を求めたのですが、大野藩の開拓計画は許可されませんでした。こうして大野藩の夢は消えてしまったのです。

ウ.大野藩の奥蝦夷開拓

内山隆佐とともにわが国の将来を憂い北方の開拓に情熱を燃やしていた大野藩士早川武英は、「口蝦夷(北海道)がだめなら奥蝦夷(樺太)がある」と主張し、藩論を動かし1857年(安政4年)幕府へ許可を求め樺太の開拓にのり出すのです。樺太は日露通好条約で両国雑居地と定められ、ロシア人の移住が盛んになっていました。一方、わが国はロシアの南下には無策に等しかったので、樺太がロシアの領土と化してしまうのは時間の問題だったのです。

幕府にとって、大野藩の申し出は願ってもないことでした。1858年(安政5年)幕府は藩主利忠に「樺太西海岸ライチシカより北はホロコタンまでの間に家来や農民を移住定着させ、ウショロに元会所を置き、漁場を設け、土地を開拓し、ロシア人南下に対する警備にも心得られたい」と樺太の開拓と警備を指令したのです。許可を得た大野藩ではさっそく早川武英を屯田司令に任じ、藩士10名と領民約60名を渡航させました。

船を持たない大野藩にとって、樺太への渡航は多くの費用と困難をともないました。樺太の開拓や大野屋の経営に船が必要だったので早川武英は洋船の購入を藩に願い出て建造したのが「大野丸」です。

大野丸は長さ23m、幅7m、深さ5.4mで最新鋭の2本マストの帆船で1858年(安政5年)7月に進水しました。船長は幕府の海軍所で船の操縦術を学んだ大野藩士吉田拙蔵でした。1859年(安政6年)3月総督内山隆佐、屯田司令早川武英らを乗せた大野丸は蝦夷地に向かって敦賀港を出発しました。その後の大野丸は1864年(元治元年)根室沖で座礁破砕するまでの数年間、主に蝦夷地と敦賀港を往復し北方貿易に従事しました。その間、1859年(安政6年)8月には難破したアメリカ商船の遭難者を救助したこともありました。

エ.大野藩のフロンティア精神に学ぼう

大野藩の樺太開拓は、日本人としては最北端の地に定着し、原野の開墾と漁場の開発に加えて辺境防備という大役をも兼ねるもので、他藩の単なる北辺探検や漁場開発とは大きく異なっていました。寒さに慣れている大野藩士や領民でしたが樺太の寒さは大野の比ではなく、樺太での越冬はきわめて苦しいものでした。それに樺太開拓によって少しでも藩財政を潤すことができるだろうという、当初の見通しとは異なって失費が多く、樺太開拓は大きな壁にぶつかってしまいました。

そこで総督内山隆佐は助成金を幕府に願い出たのですが、認められません。早川武英はこれ以上樺太開拓を続けられないと判断し、幕府へ土地を返還する上地嘆願書を提出しました。このことに対し、1860年(万延元年)8月22日藩主利忠を江戸城に呼び出した幕府は「樺太において許した土地は大野藩領とする。助成金は出せないがその代わり、江戸城における大野藩の御用を免じるから北蝦夷開拓に専念せよ」といい渡したのです。こうして樺太西海岸は大野藩の準領地となったのですが、それは幕府の大野藩に対する期待が大きかったからです。その後早川武英らはロシア人の乱暴をおさえるなど辺境の守りと開拓に努めたのですが、その成果はあまりありませんでした。

このように情熱を注いだ大野藩の北蝦夷開拓は、1862年(文久2年)北辺開拓に熱意と理解のあった藩主利忠の隠退・1864年(元治元年)内山総督の死と大野丸の難破沈没などで行き詰まってしまったのです。こうして1868年(明治元年)大野藩は莫大な費用と大きな犠牲をはらって開拓した樺太の地を明治新政府に返し、大野藩の樺太開拓事業に終止符をうったのです。

大野藩が樺太の北緯50度まで開拓した事業は、1875年(明治8年)の樺太・千島交換条約や1905年(明治38年)のポーツマス条約に影響を与えたものと考えられます。
山間の一小藩が日本の将来に目を向け、命をかけて北方の開拓という難事業に取り組めたのは、藩主利忠のもとに有能な家臣が力を結集したからです。私達はこれら祖先の労苦を無駄にしてはならないと思います。

(2) 福井県における北方領土返還要求運動

1) 県議会・市町村議会の取り組み

福井県議会では1964年(昭和39年)9月29日に初めて決議をし、1976年(昭和51年)12月23日に再度「北方領土の早期返還に関する決議」を行いました。また、市町村議会では1967年(昭和42年)9月29日に鯖江市議会が「北方領土の早期日本復帰に関する決議」を行ったのをはじめとして、1984年(昭和59年)までに35の全市町村議会が早期復帰実現に関する決議を行いました。

2) 県民会議のできるまで

福井県では、1976年(昭和51年)と1981年(昭和56年)に相次いで北海道から返還要求キャラバンが訪れ県内各地で署名運動を行いました。

一方、国では1981年(昭和56年)1月、2月7日を「北方領土の日」と定め、全国的に運動を進めることを決めました。このような県内外の気運の高まりの中で、さらに幅広い世論の盛り上がりと、多くの県民の参加を求めることが必要であるという考えから、県・市町村をはじめとして、青少年・婦人・労働・経済・農林水産などの各団体の協力のもとに県民会議設立の準備が進められ、1982年(昭和57年)8月19日、県下の17団体が参加し、「北方領土返還要求運動福井県民会議」が結成されました。

(3) 北方領土返還要求運動都道府県民会議

1.名称
北方領土返還要求運動福井県民会議
2.設立年月日
昭和57年2月7日