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(1) 福島県と北方領土のかかわり

1) ロシア船の侵攻と会津藩の北方防備

1799年(寛政11年)幕府は、ロシアの南下に備え、東蝦夷地を松前藩の経営から幕府の直轄とし、守備兵を置くようになりました。

1804年(文化元年)ロシア使節レザノフは、通商条約の締結をせまりましたが、鎖国方針のもとにあった幕府の拒絶にあい、武力による交渉打開をめざしました。1806年(文化3年)レザノフは、部下に命じて千島、樺太の日本人居住地を攻撃させ、翌年の1807年(文化4年)には、利尻島、択捉島に侵攻しました。この事態に対応するため、幕府は奥羽4藩に対して蝦夷地警備を命じました。

会津藩は、1808年(文化5年)幕府の命令によって、蝦夷地・樺太の警備をすることになりました。
この遠征は、前軍、中軍、後軍の三隊に分かれ、樺太、宗谷、利尻島、松前に陣を設け警備に当たりました。遠征隊は、この年の正月から、雪の中を順次出発し、仙台、盛岡を経て、三厩(現在の青森県外ヶ浜町)から船9隻で海を渡り、4月にそれぞれ目的地に着きました。

宗谷、樺太には、藩の陣屋をつくり砲台を築いてロシアの襲撃に備えたのですが、この時期には襲撃はありませんでした。北の防人として派遣された会津藩の敵は、ロシアではなく生活そのものであったといえます。気候や食物をはじめ環境のちがいから、なかには水腫病という風土病におかされ、帰らぬ人となった藩士もいました。

1808年(文化5年)の7月には、帰還命令がありましたが、樺太や利尻島からの隊は、途中暴風雨にあい、船がこわれ、おぼれ死んだ者や、佐渡、松前、秋田などに漂着した者もあり、たいへんな困難を乗りこえて12月にようやく最後の兵が若松に帰ったと伝えられています。
「たんぽぽや会津藩士の墓はここ」と慰霊の句を記した記念碑(稚内市宗谷地区)が1977年(昭和52年)6月に再建され、今もしずかに藩士の霊を見守っています。

2) 会津藩の蝦夷地拝領と北方防備

1853年(嘉永6年)アメリカ艦隊のペリーが、三浦半島の浦賀に来航したころ、会津藩は江戸湾の沿岸警備に当たっていました。
また、この年は、ロシアもプチャーチンを長崎に派遣するなど、外国船がしきりに日本近海に出没していました。

このため、幕府では各藩に沿岸防備の方法を求めたり、鎖国を継続するか、開国を行うかの議論が行われ、やがて、長い間の鎖国政策は終わりをつげました。1859年(安政6年)会津藩は幕府から蝦夷地の一部(現在の根室、網走地方)を領地として与えられ、漁業や開拓を進める一方、北方の守りを固めたのです。会津藩は、江戸湾警備のための品川沖、砲台の守衛の任務を解かれたのですが、かわって蝦夷地へ藩兵を派遣しなければならなかったのです。藩の本営をシベツ(標津)に建て、分営を函館とシャリ(斜里)、モンベツ(紋別)に設置して連絡をとることとし、藩士を移して漁業、開拓の指導に従事させることにしました。

また、1862年(文久2年)には、藩主松平容保が京都守護職に任命され、蝦夷地の防備だけでなく、尊皇攘夷運動激化にともなって京都を警備する大任をはたさなければなりませんでした。

開港後は、外国貿易の影響が会津の領内にも及び、国産品の海外輸出も多少ながらはじまっていました。藩は産業の奨励により、領民の生活を安定させる一方、多額にのぼる警備の経費にあてるため積極的に貿易をすすめ、藩の収入を得ようとしました。

このような藩の方策は、新領地蝦夷地の経営にも示され、1863年(文久3年)に大阪や越後(新潟)で3隻の船を新造し、これを函館に回送し、秋鮭(さけ)のほか新領地の産物を積みこませ、年々船を増加しながら産物輸送を行いました。
しかし、蝦夷地における藩の権限は幕府から強い制約を受け、藩の財政に余裕があったわけではなく、沿岸の警備だけでも持て余していた状態であったので、領地の経営にはみるべき成果はあがらなかったと伝えられています。

(2) 福島県における北方領土返還要求運動

1) 福島県各界連絡会議の結成

福島県では、いくつかの全国的なつながりのある青年団体、婦人団体、労働団体が早くから北方領土返還要求運動に取り組んでいたほか、個人で何回も納沙布岬に調査にでかけ、運動を独自に組織していた元町長さんもいました。

1977年(昭和52年)になると、これらの団体や有志の人々の間で、お互いに協力しあって、もっと多くの団体にも呼びかけ、県内の運動を盛り上げていこうという機運が生まれ「講演と映画の夕べ」や北方領土展の開催など、一年間の準備活動のうえに、1978年(昭和53年)、「北方領土をとりもどす」福島県各界連絡会議が結成されました。

2) 第13回「北方領土返還要求のつどい」の成功

各界連絡会議は、結成の当初から北方領土問題対策協会や県と連絡をとりながら運動に取り組み、地元での宣伝活動のほか、全国集会の共催団体になるなどの活動をしました。しかし、個人や15の参加団体だけでは力に限りがあり、強力な県民運動をくり広げるには、県が参加する本格的な県民会議を組織することが必要になりました。

おりしも、1981年(昭和56年)に、それまで総理府・北海道が共催し各県で順番に開催されてきた「北方領土返還要求のつどい」第13回集会が福島県で開催されることになりました。福島県では、各界連絡会議がその主催団体となり、県のバック・アップを受けて県内の主要な団体に呼びかけ、32団体が参加した「第13回北方領土返還要求のつどい」推進委員会が組織されました。これら諸団体が力を合わせたことにより集会には、これまで最高の2,600人が集まり、大きな成功をおさめました。

3) 県民会議の設立とその活動

このように、民間運動の力と県をはじめとする行政機関の積極的な姿勢が結びついたことにより、県民会議を結成するよい土台ができました。これを受けて1983年(昭和58年)9月10日、県内64団体が参加する北方領土返還要求運動福島県民会議が設立されました。

この県民会議には、県をはじめとする地方自治体とその関係団体および商工関係、農林漁業関係、社会福祉関係、教育関係などの各団体、それに青年団体、婦人団体、労働団体などが参加しており、県内各界各層の人々が強く北方領土返還を要求していることが示されています。

戦後40余年を経過し、今なお解決していない北方領土問題を解決して、日ソ平和条約を締結し、日本とソ連(現在のロシア)の友好関係を打ち立てていくためには、この問題について私たち一人ひとりがもっと理解を深め、返還要求の声を大きくしていくことが大切です。
県民会議は、このために県民意識の高揚をはかることを目的として、講演会や県内キャラバンをはじめ、各種啓発、宣伝活動に取り組んでいます。
みなさんも、北方領土問題について友達といっしょに話し合い、認識を深めてください。

(3) 北方領土返還要求運動都道府県民会議

1.名称
北方領土返還要求運動福島県民会議
2.設立年月日
昭和58年9月10日