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神奈川県と北方領土とを比較してみましょう。
まず、北方領土の大きさですが、総面積は5,003km2ですから、神奈川県の面積2,416km2の2倍以上です。また、北方領土で一番大きい択捉島は3,167km2ですから、これだけでも神奈川県の1.3倍あります。

つぎに、北海道と北方領土の距離を見ますと、納沙布岬と北方領土で最も近い歯舞諸島の貝殻島まで3.7km、野付半島から国後島まで16kmにすぎません。鎌倉市の稲村ケ崎と江の島の距離は約3.5km、三浦市の油壺と江の島の距離は約19kmです。稲村ケ崎や油壺から江の島はすぐそこに見えますが、北方領土の島々も北海道からこれほど近くにあるのです。

神奈川県みなとみらい夜景の写真

(1)神奈川県と北方領土のかかわり

1) かかわりの背景と歴史

神奈川県は、日米和親条約の結ばれた地であるとともに、鎖国日本が諸外国へ門戸を開いた最初の土地でもあります。
このことから、神奈川県は現在にいたるまで、横浜・浦賀などの港を窓口として世界の国々と経済や文化の交流を積極的に行い、日本の発展に大きな役割を果たしてきました。

しかし、最初の外交交渉がアメリカとの間で行われたように、外国との関係をものがたる歴史的な遺産や資料の多くは、横浜の港などを窓口とした太平洋方面からのものです。
それでも、わずかですが、北海道や北方領土とのかかわりをしめす資料も残されています。実際は、神奈川県にかかわる国際化の動きは太平洋側からだけでなく、北方海域からも押し寄せていることがわかります。

また、ペリーが来航し、神奈川県を舞台とした日本との外交交渉は、イギリスやロシアがクリミア戦争(1853年~1856年)のために太平洋方面に力を入れなかった間に行われたもので、単にアメリカと日本の関係というだけでなく、背景にロシアやイギリスが深くかかわりあっていることを知る必要があります。

神奈川県と北海道のかかわりをしめす最初の資料としては、ヨーロッパ人として最初に蝦夷地へ渡ったイエズス会神父ジェロニモ・デ・アンジェリスに関連する話があります。
アンジェリスは、1618年(元和4年)布教活動のため蝦夷地へ渡り、後日、幕府のキリシタン禁止の令により捕らえられ、江戸において処刑されました。その時、鎌倉で捕らえられたフランシスコ会の神父も、アンジェリスなどとともに処刑されています。大阪夏の陣(1615年)間もないころ、すでに関東から蝦夷地への往来も可能であったことがわかります。

18世紀に入って、ロシアの北方領土方面への進出がみられ、これに対応して、幕府は、1785年(天明5年)最上徳内らを派遣して択捉島などの実地調査を行っていますが、これに先立つ1756年(宝暦6年)2月、相模国(現在の神奈川県)浦賀を出帆した紀伊国(現在の和歌山県)の船が嵐のため漂流し、同年5月択捉島モヨロへ漂着するという事件がおこりました。これは、大黒屋光太夫などの例からも理解されるように、海上関係者の偶然をまじえながらも北方領土の島々とのかかわりあいが生じていたことをしめしています。

明治になると、神奈川県と北方領土との海上交通を通してのかかわりは増してきます。1875年(明治8年)、日本とロシアは「樺太・千島交換条約」を結び、それによって、日本は千島列島全部を領有することとなりましたが、これを機会に明治政府は北方領土や千島列島の島々の調査をしました。
その調査報告書によると、ウルップ島について、つぎのような記録があります。

“本年ラッコ猟船サンフランシスコより三隻、横浜より三隻来船した。…フワーネ号はラッコ皮122枚を得たが、その他の船はそれより多い…。

この資料からは、漁業を通して北方領土や千島列島が神奈川県と関係していたことがわかります。

一方、国後島、択捉島など北方領土とのかかわりをしめす資料が海から離れた伊勢原市にもあります。
1804年(文化元年)、幕府は、蝦夷地の鎮護のため、みずからが管理する官寺として有珠に善行寺、様似に等じゅ院、厚岸に国泰寺を設けました。
これらの三つの官寺は、それぞれ受け持ち地域が定められ、国泰寺は、襟裳岬の東側から、国後島、択捉島など北方領土にいたる広大な地域を受け持っていました。

この国泰寺の初代住職は現在の相模原市、光明寺の文翁智政和尚が選ばれました。そして、五代目住職は伊勢原市下糟屋、神宮寺の文道玄宋和尚、六代目住職は同市池瑞、蔵幅寺の香国弁渕和尚が選ばれました。
そして、この三つの官寺は、それぞれの受け持ち地域を年一回巡回することとされていました。とくに、奥地の根室や国後島、択捉島など北方領土への巡回には約3か月間を要し、たいへんな苦労と危険をともないました。

国泰寺五代目住職文道玄宋和尚は、任期を終えて帰り、北辺の安泰を祈願して神宮寺に多宝塔を建立しました。この多宝塔は、現在、同じ下糟屋の普済寺にあります。
また、この文道玄宋和尚のとき国泰寺執事を務めた松堂玄林和尚が任期を終えて帰った伊勢原市田中の耕雲寺には、国後島、択捉島などの地図が残されています。

2) 北方領土のかにかん詰と横浜検査所

国後や歯舞の島々で歌われ、今は根室で歌い継がれている歌のなかで、
”…の詰めたるかん詰は横浜検査に合格し…”
と歌われています。ここにも神奈川県とのかかわりがでてきます。

国後などのかには、かん詰として加工されるようになるまでは、漁網に脚がからまり、漁業のじゃまになる、やっかいものでしたが、かにかん詰の製造技術が進み、海外へ輸出されるようになると、かにの漁獲量は急激に増えていきました。

かにかん詰は、1881年(明治14年)釧路で試造され、第2回内国勧業博覧会に出品されていますが、根室地方や国後島、択捉島などの北方領土で本格的に製造が始まるのは、1905年(明治38年)、国後島の古釜布にかにかん詰工場が新設されてからのことです。

これらのかにかん詰は、国内での販売努力とともに、海外への輸出努力が重ねられ、明治40年代には、アメリカへの輸出が大幅に増えていきます。
これとともに、業者間の競争が激しくなり、その結果、粗悪品の輸出も増えていきました。1909年(明治42年)には、サンフランシスコ駐在領事から警告が出されたことなどにより、1912年(明治45年)から輸出用かにかん詰めの品質向上のため、横浜などに検査所をおいて、輸出検査が行われるようになりました。横浜検査所は、昭和の初期には、横浜市中区北仲通(県庁のすぐ近く)にありました。

かにかん詰は、大半がアメリカ向けで、ほとんどが横浜港から輸出されていました。
日本のかにかん詰・びん詰の輸出総額のうち横浜港から輸出された額の割合を見ますと、1910年(明治43年)98%、1914年(大正3年)95%、1918年(大正7年)82%となっています。
神奈川県と北方領土とは、かにかん詰の輸出を通して深く結びついていたといえます。

(2)神奈川県における北方領土返還要求運動

全国的な北方領土返還要求運動の気運の高まりのなかで、神奈川県内では、北方領土問題対策協会神奈川県推進委員や青年会議所、神奈川同盟などが中心になって、1985年(昭和60年)11月24日、経済、労働、婦人、社会福祉、教育関係、行政関係団体など県内各界の団体を会員として、北方領土返還要求運動神奈川県民会議が発足しました。この設立総会では、県民会議の運動方針が定められ、北方領土返還要求運動の普及啓発、広報活動や情報資料などの提供、県民大会の開催などが決められました。

(3) 北方領土返還要求運動都道府県民会議

1.名称
北方領土返還要求運動神奈川県民会議
2.設立年月日
昭和60年11月24日