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(1)宮崎県と北方領土のかかわり

1) 北方領土への関心の高まり

宮崎県から遠くはなれている北方領土のことを宮崎の人が、いつの頃から知るようになったのでしょうか。
奈良時代や平安時代のはじめ頃に、当時蝦夷地と呼ばれていた東北地方の人たちが、数百人も、強制的に日向国宮崎に移住させられたことがありました。その頃隼人と呼ばれた南九州の人たちも畿内(現在の近畿地方)などに移されています。古代九州には、東国から防人も派遣されていますので、東北地方のことは、早くから知られていたのかも知れません。

江戸時代には、北海道や北方領土を蝦夷地というようになり、くわしい調査や測量が行われました。幕府の命令で、日本全国の沿岸を実測して日本地図をつくった伊能忠敬は、1810年(文化7年)と1812年(文化9年)の2回にわたり日向を測量しています。また1837年(天保8年)に日向をおとずれた探検家の松浦武四郎ものちに蝦夷地をおとずれていますが、日向の人がこの地方を訪れたのは数少ないことと思われます。

しかし、江戸時代も半ばを過ぎると、日本周辺に外国の船があらわれるようになり、なかでも蝦夷地に関係の深いロシアの船があらわれるようになると、日向の各藩の記録にもこのことがしばしば見られるようになります。高鍋藩の「続本藩実録」には、1804年(文化元年)、ロシア使節レザノフ(レサノツトと書いてある)と船長クルーゼンシュテルン(クローキンステルと書いてある)が、南アメリカを経て長崎に来航したこと、乗組員85人の内4人の日本人が乗っていること、航路や日本に来るようになった動機、目的などがくわしく書かれています。また都城の安山松厳父子が記録したという「年代実録」には、「ヲロシア船長崎ニ来ル」とか「ヲロシア夷(蝦夷のこと)ニ乱放(暴)ス」「ヲロシア船松前ニ来ル」などとあり、関心の高まりを伝えています。

このような中で、1800年(寛政12年)都城に生まれ、のち都城明道館の先生となった荒川秀山は、1829年(文政12年)蝦夷松前に旅をし、この地に2年余り滞在して、学問の普及に努めたといわれています。また1856年(安政3年)5月には、現在の日向市にあった富高役所が、日向国児湯郡内天領10か所に対して、蝦夷地開拓のための移民をつのる文書を出しています。

2) 本田親美と旭川地方の開発

東諸県郡高岡町の出身である本田親美(1847年~1909年)は、北海道開拓の歴史の中で、とくに旭川地方の開拓につくし、石狩川流域発展の基礎を築いた功労者です。彼は1847年(弘化4年)12月、高岡に生まれました。戊辰戦争に参加し、1871年(明治4年)に近衛兵となりました。1885年(明治18年)に陸軍御用掛として、北海道屯田兵本部付となり、屯田兵招募官として根室の和田や石狩の永山屯田兵村の経営にあたりました。

やがて旭川戸長となり村政に心をつくし、寒冷なこの地方での水田の試作に成功し、また、この地方の主産物であるとうもろこしやばれいしょを原料として、日本酒精製造株式会社を創立するなどしました。

こうして交通の上で重要であるばかりでなく、産業都市としての旭川市発展の基礎をつくり、のちに初代旭川町長となりました。1909年(明治42年)63歳で亡くなり、のちに旭川常盤公園内に本田親美彰徳碑がたてられ、その功績がたたえられています。

3) 小村寿太郎と日露領土交渉

江戸時代の末から明治時代にかけて、ロシアとの外交上の交渉がたびたび行われました。その中で最も注目をあびたのが、皆さんもよく知っています日南市飫肥出身の小村寿太郎(1855年~1911年)でした。

1904年(明治37年)、日本はロシアとの対立を深め、日露戦争がおこりました。戦いは日本が有利に進んでいましたが、アメリカ合衆国の大統領ルーズベルトのあっせんで、翌年、アメリカ合衆国のポーツマスという軍港で、講和会議が開かれることになりました。当時桂内閣の外務大臣であった小村寿太郎は日本国の全権大使として出席し、講和条約を結ぶ交渉にあたりました。

会議は領土の問題、とくに日本が要求したロシアは日本に「樺太をゆずる」という問題と「賠償金」の問題で難航しました。ロシアの全権ウイッテは、「ロシアは征服されたのではない。だからロシアの立場にあわない条件は少しも承諾するわけにはいかない」として、両問題ともこれを強く拒否しました。

この会議の中で小村寿太郎は、樺太やウルップ島以北の千島列島が、その歴史などいろいろの点からみてロシアよりもはるかに日本と密接な関係にあるところであることを強調しました。さらに、明治時代にもちこされた国境問題に関して、1875年(明治8年)、ウルップ島以北の千島列島をすべて日本領とするかわりに、樺太全島をロシアにゆずった樺太・千島交換条約も、当時世界の大国であったロシアの圧力のもとに樺太をゆずったものであることを指摘しました。

これに対しロシア側は「樺太が前からロシア領であることはゆるぎない事実である」として、これをゆずることを拒否しました。いったんは会議が決裂するのではないかと心配されましたが、結局、日本が賠償金を要求しないで、ロシアは樺太の南半分をゆずるということで条約が成立しました。

小村寿太郎の努力によってまとまったこの条約は、戦勝国として多くの利益を考えていた国民にとっては、不満なものと見られましたが、当時の日本の国力や外交上の地位を、よく知った上で結ばれたものでした。
郷土の先輩小村寿太郎の功績の大きさを知ることができます。

(2) 宮崎県における北方領土返還要求運動

宮崎県では県民会議が設立されるまで、いろいろな団体が、それぞれ返還要求運動に取り組んでいました。
全国各県に、県民会議が続々と設立された1981年(昭和56年)、本県においても、返還要求運動の推進委員と青年、婦人団体のなかから、県民会議設立の気運が盛り上がり、その発起人会が発足しました。

その頃、県議会をはじめ県内のほとんどの市町村議会では、すでに「北方領土の日本復帰促進に関する決議」をしていました。しかし、地理的に北方領土とあまりに離れているため、この運動のことを知らない県民も多く、まだ全県的な広がりが見られませんでした。

この運動は幅広い世論の盛り上がりのなかで、数多くの人たちが参加していくことに意義があります。発起人会では広く県内のいろいろな団体に呼びかけ、県民会議への参加、協力をお願いしました。
こうして翌1982年(昭和57年)10月24日「北方領土返還要求運動宮崎県民会議」が設立されました。

(3) 北方領土返還要求運動都道府県民会議

1.名称
北方領土返還要求宮崎県民会議
2.設立年月日
昭和57年10月24日