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北方領土というのは、歯舞諸島、色丹島、国後島、択捉島の島々です。
私たち奈良県民の中には、北海道の東にある小さな島々のことだと思っている人が多いのではないでしょうか。

北方領土の総面積は、5,003km2で奈良県の面積(3,691km2)の約1.36倍の広さです。
その中で最も大きい択捉島は、3,168km2で、十津川村(672km2)の約4.7倍もあります。

このわが国の固有の領土である北方領土は、第2次世界大戦後、ロシアに占拠されたままで、日本はその返還を強くロシアに要求しています。
第2次世界大戦後約17,000人もの人々が、長年住み慣れた北方の島々から、わずかな身の回り品をもって北海道などへ強制的に引き揚げさせられました。
自分たちの故郷へ自由に帰れない苦しみは、はかり知れないものがあります。

奈良県浮御堂の鹿の写真

(1)北方領土にかかわる先覚者と奈良県

北方領土の早期返還を求める組織が、全部の都道府県でつくられ、若い人たちにも返還要求運動が次第に広がりつつある今日、先覚者として忘れることのできない人たちがいます。

それは日本とソ連(現在のロシア)の境界を定めた日露通好(和親)条約の締結交渉の日本側代表で、元奈良奉行であった川路聖謨、もう一人は北方開拓の先覚者として、大台ヶ原(奈良県・三重県)の近代における紹介者でもある松浦武四郎です。
この二人は、北の島々と私たちの奈良県を強いきずなで結んでいます。

1) 川路聖謨

川路聖謨は、1801年(享和元年)、豊後の国日田(現在の大分県)に生まれ、1846年(弘化3年)46歳のときから5年余り奈良奉行として奈良に住みました。
その後大坂町奉行をへて、1852年(嘉永5年)勘定奉行となり海防を担当しました。

1853年(嘉永6年)長崎で、ロシアの提督プチャーチンと開国や両国の貿易、国境について、何回にもわたり粘り強く交渉を行いました。
そして翌年、下田(現在の静岡県)で再び交渉、日露通好(和親)条約の締結にようやくこぎつけるなど、幕末外交史上に大きな足跡を残した人物です。

奈良での聖謨は、名奉行として人々に慕われ、その評価も高く多くの業績を残しました。老人や貧しい人、病人などの救済制度をつくったり、奈良公園の緑を守ろうと興福寺や東大寺の境内などに、みずから苗木を寄付し町民に呼びかけて、桜楓数千株を植樹したのです。
また、いずれはこれらの木も枯れる心配があるからといって、後の世の人々に受けつがれるよう碑を建立しました。
猿沢池から興福寺の方へ「五十二段」をあがると、今も「植桜楓之碑」が立っています。

2) 松浦武四郎

松浦武四郎は、1818年(文政元年)、伊勢の国須川村(現在の三重県)に生まれました。
28歳のとき、ロシアが南に向かって領土を広げてきていることを知り、それからの13年間に6回も、樺太(サハリン)、北方領土、千島列島まで探検して、各地のくわしい地図をつくったり、住民の風俗、習慣等の調査書を書いたりしました。その著述数だけでも240編にのぼるぼう大なものを残しています。

1869年(明治2年)開拓判官を命ぜられ、この年武四郎の意見が採用されて、蝦夷地を「北海道」と呼ぶことになりました。
武四郎は、号を「北海道人」と名のり、北海道の名付け親としてその名を残したのです。

また、武四郎は自然を愛し動物や植物の生態を細かく観察して記録に残しました。大台ヶ原の素晴らしい自然を愛したのも当然です。
初登山は、1885年(明治18年)武四郎68歳のときで、東海道から大台ヶ原に登ることになり、地元有志の案内で、十数日にわたり仮小屋で寝たり、野宿したりして山野を踏査し奇勝や秘景を探りました。

その後も1886年(明治19年)、1887年(明治20年)と続けて登山、ナゴヤ谷、元木屋谷、牛石ヶ原などに小屋をつくりました。その業績が基礎になって、大台教会が建てられたのです。
これらの登山で大台ヶ原を知るうえでの古典とされている「乙酉掌記」「丙戌前記」「丁亥前記」(明治18年~同20年)の三巻を書きました。いずれも図、文ともくわしいもので感嘆する内容です。
そして、大台ヶ原を愛した武四郎の遺志どおり、分骨追悼碑がナゴヤ谷の小高い丘に立てられています。

(2) 奈良県における北方領土返還要求運動

1) 県民会議結成の気運高まる

北方領土の返還は日本国民の長年の悲願であり、奈良県でも返還の声を盛り上げていくことが必要です。
1981年(昭和56年)1月の閣議で、今から約130年前の1855年(安政元年)択捉島とウルップ島の間に日露両国の境界を定めた日露通好(和親)条約が締結された日(2月7日)を「北方領土の日」と決めました。
奈良県でも、これを機に返還要求運動を進めていくことになりました。

この年の2月、近鉄奈良駅前で北方領土返還要求運動の推進委員のほか、県、支援団体等の代表者が参加し、返還運動に協力を呼びかけるビラを配布し、その後、参加団体の輪を拡大しようと研修会を開催したりして、奈良県民会議の設立にむけて準備会も開かれました。

上田知事は、県議会において「県民多数の参加を得て北方領土返還要求運動奈良県民会議の早期結成」を推進することを表明するとともに、県議会も1974年(昭和49年)と1977年(昭和52年)、さらに1981年(昭和56年)につづいて、1984年(昭和59年)にも「北方領土の返還交渉をより積極的に推進し、早期解決に最善の努力を傾注されるよう」要望する意見書を国に提出しています。1984年(昭和59年)11月には、奈良市内で北方領土展が開催され、6,900人もの多数の入場者があり、県民におおいにアピールしました。
こうして北方領土に対する県民の理解が深まり、奈良県民会議設立の気運が急速に盛り上がってきました。

2) 県民会議の結成

奈良県で県民会議を結成したのは、1985年(昭和60年)2月7日です。
戦後40年の節目の年に、関係88団体の代表者160人が参加して結成総会を開き、満場一致で「北方領土返還要求運動奈良県民会議」(奈良県民会議)の結成が決まりました。

(3) 北方領土返還要求運動都道府県民会議

1.名称
北方領土返還要求運動奈良県民会議
2.設立年月日
昭和60年2月7日