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(1)新潟県と北方領土のかかわり

1) 北をめざした人たち

新潟県は、蝦夷地といわれた北海道や樺太、北方領土及び千島列島などの北方の地域とは、地理的に近いこともあって、すでに15世紀ころからかかわりがあったといわれています。江戸時代中期以降になると、北方地域の探検と開発の必要性を説いた村上出身の本多利明(1744年~1821年)をはじめとして、幕府の蝦夷地取締御用掛として樺太を探検して「北夷談」を書いた松田伝十郎、蝦夷地の開拓に参加した松川弁之助、鳥井権之助などが出ました。

また、明治以降には、多くの県人が北海道を根拠地として、カムチャッカ半島や樺太、千島列島、歯舞諸島、色丹島、国後島、択捉島などの島々に渡って活躍しました。とくに、北海道開拓に一生を捧げた関矢孫左衛門、さけ・ますの漁場開発やふ化事業に尽くした碓井勝三郎や小池仁郎、北洋漁業の発展に手腕を発揮した堤清六などが有名です。

2) 新潟県が生んだ北方開拓の先駆者たち

ア.新潟県と北方開拓

新潟県は日本海に面して、古くから米の産地として知られたばかりでなく、さけ・ますの産地としても知られています。さけ・ますを中心とする北方の漁場に対する関心の深さが、県民の北海道など北方地域への移住を促進した理由の一つになっています。
北方開拓に尽くした新潟県人のなかから、蝦夷地開拓に先駆的役割を果たした松田伝十郎、漁場の開発や漁業の発展に努力した松川弁之助、碓井勝三郎、堤清六などの活躍を紹介してみましょう。

イ.松田伝十郎の樺太探検

頸城郡鉢崎村(現在の柏崎市米山町)出身の松田伝十郎(1769年~1843年)は幕府から北蝦夷地(樺太)の探検を命ぜられ、部下の間宮林蔵らとともに苦心のすえ、1808年(文化5年)に大陸と樺太との間に海峡が存在し、樺太が離島であることを初めて発見しました。このとき発見された海峡は間宮海峡と命名されましたが、これは間宮林蔵が幕府に探検報告を送ったことから幕府が間宮の名を付けたといわれています。
伝十郎の書いた「北夷談」には、海峡発見の事情や樺太の地形、そこに住む人たちの生活の様子がくわしく報告されています。

ウ.松川弁之助と蝦夷地開拓

松川弁之助(1802年~1876年)は蒲原郡井栗村(現在の三条市井栗)の大庄屋の家に生まれました。42歳で大庄屋を継いだ弁之助は、父三之助の影響を受けて蝦夷地開拓を計画し、着々と準備にとりかかりました。
そして幕府の許可を得て、1856年(安政3年)55歳のときに数十名を率いて箱館(現在の函館)に渡りました。箱館では、以後数年間にわたって、松・杉の植林、新道の敷設、原野の開墾を行うとともに、弁天砲台や、わが国最初の堅固な洋式築城となった五稜郭の土木工事を請負うなど、箱館の街づくりと防備に多くの業績を残しました。

また、弁之助は幕府の御直捌所差配人元締として、親戚の三島郡出雲崎町(現在の出雲崎町)の名主鳥井権之助らの協力を得て、私財を投じて樺太の漁場開拓に力を注ぎました。1857年(安政4年)、弁之助は一ノ木戸村(現在の三条市一ノ木戸)の小林森之助を樺太に送って、ます1,000石の漁獲を上げ、さらに翌年には、自ら大船20隻を率いて、樺太東海岸に出漁しました。

しかし、不運にも不漁続きのうえ厳寒や栄養障害が重なって、予期した成果をあげることができず、1862年(文久2年)郷里へ帰りました。弁之助の事業は失敗に終わったとはいえ、蝦夷地開拓にかけた熱意は北方開拓をめざす人びとに大きな影響を与えました。

エ.碓井勝三郎とかん詰工場

碓井勝三郎(1854年~1916年)は三島郡与板町(現在の長岡市)に生まれ、新潟の海産物問屋に奉公した後、1875年(明治8年)北海道に渡りました。
勝三郎は根室で雑貨行商を営みながら、歯舞諸島の一つの志発島でこんぶの採取にも従事しました。さらに1887年(明治20年)には酒造業をはじめ、そのとき売り出した「北の勝」は、今なお根室の銘酒として名をはせています。

やがて、勝三郎は1894年(明治27年)さけ・ますのかん詰工場を根室に建設し、翌年には別海(現在の別海町)にも工場を増設しました。さらに1896年(明治29年)には国後島のフルカマップ(古釜布)にも進出して、最盛期には根室に4か所、国後島・歯舞諸島に7か所のかん詰工場を所有するに至りました。
なかでも、かにかん詰は勝三郎の努力で肉質変色障害の防止に成功して、欧米人の間で好評を博し海外市場での需要を増やしました。
また一方では、牛や馬の改良繁殖を図るなど、実業家として幅広く活躍しました。

オ.小池仁郎とさけ・ますふ化事業

小池仁郎(1866年~1936年)は頸城郡潟町村(現在の上越市大潟区)に生まれ、1880年(明治13年)根室で漁業を営んでいたおじ吉兵衛の養子となって北海道に渡り、根室で修業をしました。
やがて1894年(明治27年)、28歳で漁場の権利を得て独立しました。仁郎はさけ・ますの人工ふ化の必要性を痛感して、根室漁業組合の代議員となると、さっそく人工ふ化事業に取り組みはじめました。

彼は、新しいふ化場設置のため根室原野をくまなく歩き回って各河川を調査し、後には原野のすみずみまで知りつくし、アイヌ人からさえ原野のことなら小池仁郎に聞けばわかるといわれるまでになりました。仁郎のこの情熱は、その後のさけ・ます漁業の盛況をもたらす原動力となりました。

そして、ついに西別川の河口から80km上流の地にさけ・ますふ化場を設置するとともに、標津川など6河川の上流にふ化場を新設することに成功しました。仁郎は、1904年(明治37年)に北海道会議員となり、1915年(大正4年)には衆議院議員に当選し、北海道の水産界のために尽くしました。

カ.堤清六と北洋漁業

堤清六(1880年~1931年)は南蒲原郡三条町(現在の三条市)の呉服商堤清七の長男として生まれました。
清六は、日露戦争に出征したのが縁となり、シベリア貿易を志して1906年(明治39年)調査のため沿海州を訪れました。そして、アムール河口付近の日本人漁場ブロンゲ岬で、平塚常次郎、福本万作と出会い、北洋漁業が前途有望であることを知って、漁業に一生をかけることを決意しました。この年、清六は新潟市で平塚常次郎とともに堤商会を設立しました。

1907年(明治40年)、清六は163トンの帆船「宝寿丸」に乗り込み、カムチャッカ半島東海岸に初出漁しました。そして、さまざまな苦労を体験しながら業績を上げ、1910年(明治43年)には、さけ・ますのかん詰製造に着手し、さらに1912年(大正元年)になると、アメリカ製の自動式かん詰機械を導入して、成功をおさめました。
彼の事業にかける情熱はその後も衰えることなく、小樽に製かん事業をおこし、沿海州・樺太・アラスカへ進出してパルプ事業や魚油加工を行うなど多彩な活動を続けました。

清六は企業家としても抜群の才能を発揮して、事業の拡張に合わせて堤商会を極東漁業と改め、さらに1921年(大正10年)には企業合併により日魯漁業株式会社を設立して会長に就任し、漁業王・かん詰王といわれました。1924年(大正13年)には、衆議院議員に当選して政界に進出し、国の政策として日本の北洋漁業の発展に努めました。

(2)新潟県における北方領土返還要求運動

歯舞諸島、色丹島、国後島、択捉島の北方領土は、わが国固有の領土であり、その返還を実現するための運動が全国的に展開されています。

新潟県でも1981年(昭和56年)2月の定例県議会で北方領土返還に関する意見書が全会一致で採択され、政府に早期復帰の実現を強く要望しました。このような動きの中から、返還要求に関する県民世論の活発な盛り上げを図り、北方領土問題の早期解決を促進するため、この運動の推進母体となる県民会議を設立しようという気運が高まってきました。そして、自治体、青年、婦人、労働、経済、農林水産関係など県下41団体の参加を得て、1983年(昭和58年)2月7日の「北方領土の日」に「北方領土返還要求運動新潟県民会議」が設立されました。

(3) 北方領土返還要求運動都道府県民会議

1.名称
北方領土返還要求運動新潟県民会議
2.設立年月日
昭和58年2月7日