佐賀県
-あなたのまちと北方領土-
皆さんは、佐賀県と北方領土との関係についてどのくらい知っていますか。
佐賀県立図書館の鍋島文庫(旧鍋島家所蔵資料)には、北方領土や北海道の古地図や文献がかなり所蔵されており、この中には北海道にもない貴重な資料も含まれています。1972年(昭和47年)6月、北海道開拓記念館で開催された「北海道地図今昔展」に、資料の一部が特別展示され、北海道の人たちの注目をあびました。
展示された「蝦夷地之図」は、彩色手書きのもので、1850年(嘉永3年)後半の作と考えられ、北方領土が詳しく描かれています。また、1800年(寛政12年)から1810年(文化7年)ころの作図とみられる「ウルップ島之図」は、島内の地形や地名を記入しています。この他「蝦夷地湊々測量之図」は1810年(文化7年)~1853年(嘉永6年)ころの作とみられ蝦夷地の主要な湊の水深などが記入されています。写真機などが普及していなかった時代、立体的に各地をスケッチした「蝦夷雑図」は折本形式の彩色手書きの本です。
次に、1854年(安政元年)ころの作とみられる「魯西亜営館之図」は、当時蝦夷地に南下していたロシア人の営館の姿がわかります。
北方領土が日本領土であることを、はっきり明記した「北俗考略」は1850年代に記録された文献で、松前のクナシリ、エトロフ、薩哈連島(樺太)はみな日本の植民によって日本領土となったことが記述されています。
(1)佐賀県と北方領土のかかわり
1) 蝦夷地と佐賀藩
佐賀藩は代々、西欧とただ一つの窓口であった長崎港の警備をしており、海上防衛の視点から北方地域についても深い関心を持ち、多くの資料や情報を収集していました。
幕末の藩主鍋島直正は長崎警備のため砲台の強化をはかりましたが、砲台はその地に固定してしまうので、随所に活動できる洋式軍艦の必要を感じ、オランダやイギリスから軍艦を購入しました。
1853年(嘉永6年)、ペリーが浦賀に来航した1か月ばかりののち、ロシアの使節、プチャーチンが軍艦4隻を率いて長崎にやって来ました。プチャーチンには、日本との通商を開くことや、北方地域での国境の決定という重大な任務が与えられていたのです。
日本側は幕府の勘定奉行川路聖謨が代表でしたが、使節に応接し、国書の返翰など作成したのは、佐賀藩出身の古賀茶渓で、当時のことを書いた「西使日記」はよく知られています。また、茶渓の弟古賀とう菴(昌平黌儒官)もロシア通の学者で、千島列島や択捉島を3年にわたって調査し、海上防衛の必要性と開港論を唱え「海防臆測」という本を発表しました。
1854年(安政元年)、日米和親条約で下田と箱館(現在の函館)の開港が決まり、幕府は蝦夷地を直轄地として箱館奉行を置きました。1856年(安政3年)奉行堀利煕の蝦夷地探検に直正は、藩士の島義勇と犬塚与七郎を随行させました。島はその時蝦夷地ばかりでなく、樺太にも渡って、詳しく調査して帰り「入北記」という報告書を提出しました。
直正は、藩士田中善右衛門や佐野常民に命じて、海軍を編成させ、幕府の大老、井伊直弼を口説き落とし、色丹島に佐賀藩の軍艦停泊地を作りました。佐賀藩は軍事だけでなく産業振興についても考えていたのです。
佐賀の有力商人や運送業者を勧誘して、根室、釧路地方の海産物を扱わせるとともに、移民による開拓をはかりました。佐賀の船主武富平八、武富儀八らがこの計画に応えて、蝦夷との間を往復して、ばく大な利益を上げました。蝦夷からはクマの皮、さけ、たら、こんぶなどを、佐賀からは米、酒、焼物、塩などを運びました。当時、蝦夷からの回船は西回りの航路がとられ、下関を経て大坂(現在の大阪)に集められ、全国に分散されていましたが、大坂に行くより伊万里までの航路がはるかに近かったのです。
2) 初代開拓使長官 鍋島直正
1867年(慶応3年)1月15日、王政復古の詔書が出され、1868年(慶応4年)明治新政府が誕生しました。
当時、総裁、参与、議定の三職が最高の要職で、鍋島直正は議定となりました。
まだそのころは、鳥羽・伏見の戦いに敗れた旧幕軍の藩士たちは、王政復古に反対して、各地で内乱を起こし、最後は箱館の五稜郭にたてこもって、降伏するまで1年半もかかりました。佐賀藩の軍艦、朝陽、孟春、延年、甲子などが参戦、朝陽は敵弾で沈没、孟春は座礁などの被害を受けましたが幕艦、回天、蟠竜などの捕縛に功績があり、五稜郭を攻撃しました。
蝦夷地が平静になると、直正は蝦夷地開拓の任に当たることを政府に願いでました。
1869年(明治2年)、明治天皇は詔書を発して、直正を初代開拓使督務(長官)に任命しました。
詔書をわかりやすくすると「蝦夷地の開拓は、わが国運にかかわることであるから、一日もゆるがせにすることはできない。なんじ直正は、深く国家の重責を負い、自ら進んで事に当たろうと願い出た。その国を憂い、国民を救おうとする真心は、まことによろこびにたえない。ただ気にかかることは、年すでに老いたなんじが、にわかに異境の地に赴くことである。けれども、わたくしは、このことをなんじにまかせる。初めて、北域の地を顧みる憂いがなくなるであろう。よって督務(長官)を命ずる。わが国威が北辺の地にのびるかいなかは、かかってなんじの胸にある。なんじ直正、よくつとめよ」という詔書でありました。
直正の北方開拓策は、ロシアの南下に対する国防体制の整備と植民開拓でした。佐賀藩は諸藩にさきがけて、入植を出願し、厚岸、釧路、川上の3郡の支配を命じられました。これはすでに安政期に産業振興の手を打っていたことが功を奏したわけで、廃藩後、佐賀から630人の人たちが集団移住、浜中村を作りました。
直正は長官時代、北海道開拓予算があまりにも少ないので、自分の戊辰戦役における賞典禄を開拓費に充てることを願いでて、その半額支出が認められました。
3) 北方開拓に尽くした佐賀の群像
鍋島直正に代わって第二代目の開拓使長官東久世通禧を助けたのは佐賀出身の開拓判官島義勇でした。義勇は幕末、蝦夷調査に参加した経験を生かし、道都を札幌に決めたのをはじめ、北海道が諸藩の分領であるのを一元化し、場所請負制度の改革、官吏の待遇改善など思いきった施策を実行し、北方開拓の基礎づくりに尽力しました。
1872年(明治5年)外務卿になった佐賀出身の副島種臣は日露両国の外交交渉に当たり、千島列島全部を日本領土とすることを交渉しました。これが1875年(明治8年)に締結された、樺太・千島交換条約の基礎となったといわれています。
産業面では佐賀出身の開拓中判官西村貞陽が佐賀の商人武富善吉らをはげまして、北海道に1876年(明治9年)、広業商会を設立、水産資源の開発を行いました。この会社は本店を東京に、支店を上海、香港、函館、根室、大阪、長崎に置き、水産加工など手広く商売をしました。この会社には中元寺清七ら佐賀県人が多く協力しました。これらの人は水産資源ばかりでなく、硫黄鉱山や林業の開発でも活躍し、釧路地方は佐賀人によって開発されたといえるでしょう。
伊藤広著の「屯田兵村の百年」によると、佐賀県から屯田兵として入植した人は、戸数303戸、家族は男962名、女680名と記されています。屯田兵の中には佐賀の役に参加した士族たちもいました。入植先は北海道の琴似、野幌、室蘭など30数村に及んだといわれています。
また、北海道で水稲栽培を確立した江頭庄三郎ら佐賀人の名前も知られています。
現在、屯田兵として入植した人たちの子孫は、北海道のきびしい自然環境の中でも、たくましく生きのび、佐賀県出身であることに強い誇りを持っています。
(2) 佐賀県における北方領土返還要求運動
佐賀県においての北方領土の返還要求運動は、各団体が個々に進めていました。
しかし、北海道と九州ということで、地理的にも遠く離れ、運動にまとまりがなく個々の団体ではなかなか運動を浸透させるまでには至りませんでした。
このような中で、1979年(昭和54年)に青年団、婦人会、北方領土問題対策協会推進委員が主体となり、この運動を県民の間に浸透させるために県民集会準備委員会を設置し、県内の主な団体に呼びかけを行いました。
そして、農業、漁業、商工、青年等の協賛団体の参加を得て、1980年(昭和55年)2月7日に北方領土返還要求県民集会を開催し成功させました。
さらに、北方領土返還要求運動を充実させるために、県民集会準備委員会が中心となり、県内各市町村や団体に呼びかけを行い、北方領土返還要求のための県民会議を結成することになりました。
県民会議の協賛団体の外に、教育関係の団体や県内7市が加盟し45団体の協力を得て1980年(昭和55年)10月16日に北方領土返還要求運動佐賀県民会議が、県婦人連絡協議会会長を会長とし、全国の運動と連携をするために、結成されました。
(3) 北方領土返還要求運動都道府県民会議
- 1.名称
- 北方領土返還要求運動佐賀県民会議
- 2.設立年月日
- 昭和55年10月16日
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