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(1)徳島県と北方領土のかかわり

1) 岡本監輔と北方探検

ア.県民の誇り岡本監輔

いま、徳島市の眉山ロープウェイ前の広場に、徳島市ゆかりのポルトガルの文豪モラエスの碑と並んで、岡本監輔(号を「韋庵」という。)の若き日の胸像が建っています。

これと同じものが1912年(大正元年)眉山の中腹の大滝山に建設されていたのですが、戦後の混乱でなくなってしまいました。1963年(昭和38年)4月、当時の原菊太郎知事は将来をみとおすことに優れ、勇敢だった岡本監輔をたたえ、県民の象徴として顕彰したいと考え、全県下の小・中・高校生や教育関係者等多数の人たちの賛同と協力を得て胸像を再建しました。

除幕式が行われた1964年(昭和39年)8月2日は、岡本監輔が樺太探検の際、北端のゴート岬に立ってからちょうど104年目に当たる日でした。碑の右側面には、次のような漢詩が書かれています。

抵死羞看柯太島 死に抵るも看るを羞ず柯太島
余生又到餌禽州 余生又到る餌禽州
回頭西北漫雲処 頭を回らせば西北雲漫つる処
定有髯奴駕鉄舟 定めて髯奴(ロシア人)の鉄舟(軍艦)に駕するあらん

〔漢詩意訳〕柯太島を見るのは、今は堪えられない。
ところが今また、餌禽州へやってきた。
ここから西北の彼方に目を向けると、雲のたちこめるあたり。
そこは柯太でロシアの軍人が軍艦を乗り回していることであろう。

これは後年彼が択捉島へ渡り、遠く思い出の樺太を望んで詠んだ詩で、これでもわかるように監輔は生涯を北方にかけた人であったのです。

イ.前後4回の樺太探検

岡本監輔は、1839年(天保10年)三谷村(現在の美馬市)の貧しい農家の二男に生まれ、少年時代は野山で小鳥を追ったり吉野川で魚を捕ったりして遊びながら大きくなりました。そして、おじいさんから読み書きを教わり、目まぐるしく動く世の中の状況や、そのころ日本近海に出没する外国船の話なども聞いていました。
1853年(嘉永6年)15歳になった年、彼の資質が優れていることを見抜いていたおじいさんは、学問をさせるため、彼をつれて徳島市の儒学者、岩本贅庵という人のところを訪問しました。これが、彼が世に出るはじめです。

その後、高松市で勉強していたころ「ここから千里の北にサガレイン(樺太)という大きな島がある。そこの原住民はまだ耕作も知らず、魚や獣を捕って食糧とし、日本の船が来るのを待ってこんぶや魚類を衣類などの日用品と交換している。文字も知らず、勘定もできず、もちろん暦などもない」というような話を聞いたのです。この話がきっかけで彼は、青春の情熱をこの未開の地サガレインに注ぐことになったのです。

このころ「日露通好条約」(1855年)で択捉島から南の島々が日本の領土となり、樺太は日本、ロシア両国の混住の地と定められていました。そして1863年(文久3年)25歳の時、多くの苦労や困難を乗り越えて樺太へ渡ったのです。

彼の樺太探検は、この時から1871年(明治4年)3月樺太を引き揚げるまでの8年間に4回行われ、第2回目には越冬して樺太全島を踏査しました。4回の樺太滞在期間中に彼は地勢や風土、気候、資源などを詳しく調べました。また、素朴な原住民と温かい触れ合いをする一方で、ロシアの役人と開拓をめぐってのきびしい対立や交渉を何度も経験し、これらをまとめ「窮北日誌」を著しました。当時、樺太は両国にとって同じ権利の「雑居地」(混住地のこと)でしたが、ロシアの進出が顕著でした。

こうした状況を直接体験して樺太の将来に不安を感じた彼は、幕府や明治新政府に対して現地に関するいろいろな資料を添えて、一日も早く移民を送り実績を示し、それを根拠にしてロシアとの間に境界を定めることを訴え続けたのです。しかし、幕末から明治維新にかけてのわが国の事情から、監輔の願いも取り上げられず、1871年(明治4年)3月、痛恨のおもいを抱いて樺太を引き揚げました。
1875年(明治8年)「樺太・千島交換条約」が結ばれ、樺太はロシアの領土となり、千島列島が日本の領土となったことはすでに学んだとおりです。

ウ.「千島義会」の結成

その後、監輔は1881年(明治14年)東京大学予備門教諭、そして1886年(明治19年)第一高等中学校(現在の東京大学教養学部前期課程)の和漢文の教授になりました。しかし、この間も北方の海辺への関心は消えず、政府が樺太と千島列島全島を交換した後は、彼の目は今度は千島方面に向けられていきました。

1891年(明治24年)第一高等中学校をやめると、彼は択捉島から南の島々の調査に出発しました。当時国後島や択捉島にはすでに国の新しい行政上の組織はできていましたが、これらの島々の豊富な資源を求めて外国の密漁船が自由に沿岸に近づき、獲物を捕獲していました。

このまま放っておけばやがては樺太の二の舞になると思い、いち早く東京へ帰ると同志に呼びかけさっそく「千島義会」の結成に努力しました。結成の趣旨は彼がかって樺太に関して幕府や明治政府へ訴えた趣旨を一歩進めたもので「千島の開拓は有志を移して永住民たらしめ、千島を主とし内地を客とし、その地を私有して家業を営み、子孫に伝うる覚悟あらしめんことを要す」という内容です。さらに「千島聞見録」という本を著して、国後島から千島列島の北端のシュムシュ島までの20島の地勢や国土、資源について説明し、さらにこれらの島々の開拓の必要が急務である意見を述べ、広く世間の理解を求めました。しかし政府や世間の反応は冷たく、千島への関心をかきたてるまでには至りませんでした。

それでも監輔は、翌1892年(明治25年)10月同志10人ほどを集めてなんとか船を調達して千島列島へ向かいましたが、途中、択捉島の海上で暴風のため船が難破してしまい、彼の雄大な計画は行き詰まってしまいました。仕方なく東京へ引き返し、副島種臣らの理解を得ながら帝国議会(現在の国会)に千島開拓の急務を請願したのですが否決され、千島義会は結成1年で解散することになりました。

しかし、監輔の北方に対する思いは第一高等中学校時代の教え子、関熊太郎に引き継がれ、彼の「千島探検記」となりました。さらに、郡司成忠大尉(幸田露伴の実兄)、白瀬矗中尉(日本人として初めて南極大陸へ行った人)らの「報効義会」の結成(明治26年)へと発展して、北方開発の地歩が築かれる基礎となり、彼の北方領土に残した功績は高く評価されています。

その後、1894年(明治27年)5月~1897年(明治30年)3月、監輔は徳島県尋常中学校校長(現在の城南高等学校)として郷里の子弟の教育に当たり、教え子をはじめ多くの県民から信頼と尊敬を得たのです。

(2) 徳島県における北方領土返還要求運動

北方領土に対する県民の関心は、沖縄返還が実現した後急速に高まりを見せはじめました。徳島県では県青年連合会、青年会議所徳島ブロック協議会等を中心にいろいろな団体がそれぞれの立場で返還要求運動を実施していました。
1981年(昭和56年)「北方領土の日」の設定や、1983年(昭和58年)の「北方領土問題等の解決促進特別措置法」等の施行により、この領土返還運動が国民運動として大きく全国的な規模でくり広げられることになりました。

こうした全国的な盛り上がりの中で、県下の運動諸団体でも一体化した組織を作ろうという動きが出てきました。1983年(昭和58年)10月3日、県青年連合会、青年会議所、地方同盟など30団体が北方領土返還要求徳島県民会議を結成しました。

(3) 北方領土返還要求運動都道府県民会議

1.名称
北方領土返還要求運動徳島県民会議
2.設立年月日
昭和58年10月3日