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私たち鳥取県民の中には、北方領土は、はるか遠い北海道の東の海に浮かぶ小さな島々のことだと感じている人が多いのではないでしょうか。

しかし、北方領土の総面積は5,003km2で、鳥取県の面積(3,507km2)の約1.4倍の広さです。特に、北方四島のうち最も大きい択捉島は3,168km2で、この島一つでも鳥取県の面積の90%に相当します。

また、鳥取県にも江戸時代に蝦夷地を探検した人や、明治時代に北海道に渡って荒涼とした原野を開拓した人たちがいました。さらに、北方領土を含む北方海域での漁業問題は、漁業の盛んなわが県には深いかかわりがあります。

鳥取県鳥取砂丘の写真

(1)鳥取県と北方領土のかかわり

1) 鳥取藩士の蝦夷地調査

1792年(寛政4年)、ロシアの使節ラックスマンがロシア皇帝の命を受けて根室に来航して交易を求めましたが、江戸幕府は鎖国政策をとっていたため、これを拒否しました。しかし、ロシアは、シベリアからカムチャッカ半島に進出し、さらに、千島列島の島づたいに南下して来ました。このため、北方地域の緊張が高まり、ロシア勢力の進出は幕府にとって重大事となりました。

幕府は、1799年(寛政11年)それまで松前藩に支配をまかせていた北方領土や東蝦夷の地域を直接治めることにし、松平信濃守忠明ら5人を蝦夷地御用掛に任命して経営にあたらせることにしました。
松平忠明らは、この年3月、800人の部下を従えて東蝦夷地へ向かいました。この一行の中には、蝦夷地の調査のため投薬方や物産係などの多くの学者が同行していましたが、その中にやがて鳥取藩士となる島田元旦という画家が絵図取りとして参加していました。絵図取りは、今の写真班の役割です。

島田元旦(1778年~1840年)は、画家としてすぐれているだけでなく、川や橋などの土木工事や科学的な知識をもった学者でした。元旦たちは、3月24日に江戸を出発し、9月27日までの181日間の探検調査旅行をしましたが、蝦夷地に滞在した126日の間に、元旦は草木、海草、奇勝図、貝、器物、人物の図を895枚も描いています。これらの写生図は、旅行中の日記とともに「蝦夷紀行」、「蝦夷紀行図譜」としてまとめられ、幕府に報告されました。

元旦は、写生するだけでなく、物事を科学的に観察し詳しく日記に書いています。また、蝦夷の言葉を400語あまり集め「蝦夷釈名」としてまとめており、これらによって、当時の蝦夷の自然や風物、人情などがよくわかります。
元旦は、蝦夷地調査から帰ると鳥取藩の島田家を継ぎ、江戸留守居役や普請奉行などの要職についています。

この時代には、海岸線の長い鳥取藩でも異国船の渡来に対する警備をするようになり、異国や異国船に対する関心が高まって、これを研究する人がいました。鳥取藩士岡村景貞は、異国や異国船に関する国内の文献を集め「異説見聞略」を編集しています。さらに岡村景貞の門人の岡島正義は、岡村の研究を引き継ぎ「増補異説見聞略」草稿9巻を完成させました。これらに載せられている資料は、蝦夷地とロシアに関するものが多く、当時の北方領土に対する関心の高さがうかがえます。
また、岡島は鳥取藩と関係の深い日本海の「竹島」についても研究し、「竹島考」を著しています。

2) 北前船と高田屋嘉兵衛

ア.北前船

江戸時代、本州と蝦夷地との交易は「北前船」と呼ばれる帆船で行われていました。
北前船は、大阪や兵庫(神戸)の港を出発して、瀬戸内海から下関海峡を経て日本海各地の港に立ち寄りながら江差や松前まで行き、再び商いをしながら大阪や兵庫の港まで帰っていたのです。

大阪や兵庫では、酒、そうめん、油、木綿、古着などを積み、瀬戸内の港では、塩、砂糖、紙を、さらに日本海側の港では、鉄、米、縄、陶器、酒などの生活用品を積み込んで、それぞれの港でこれらの産物を売買しながら蝦夷地に行きました。そして、蝦夷地からは、帰り荷として、にしん粕、さけ、こんぶなどの海産物を積み込みました。

江戸時代の中・後期には、伯耆国(県の中、西部地域)は鉄と綿の産地として知られており、大きな北前船が美保の関や境の港に入って、これらの産物の取引きを行っていました。

イ.高田屋嘉兵衛と因幡・伯耆の人たち

このような北前船の船主に、兵庫県の淡路島出身の高田屋嘉兵衛がいました。嘉兵衛は当時としては最大級の1,500石積(約225トン)の辰悦丸を建造して、蝦夷地との交易に取り組むと同時に、国後島と択捉島の間に新しく航路を開いて北方領土の開発に大きく貢献した人です。

当時は、未知の荒海を乗り越えて新しい航路を開くことはたいへんな努力と勇気が必要でしたが、嘉兵衛は周到な準備と果断な実行力でこれらの難事業を成し遂げたのです。
高田屋嘉兵衛の目をみはる活躍は、彼の努力と才能によるものですが、彼を助けた高田屋一族の団結の力も見逃すことができません。一族の中に伯耆高田屋があり、鳥取藩と深い関係があったといわれています。

高田屋の資料によると、伯耆高田屋は初代を喜兵衛といい、喜兵衛の兄の境屋喜十郎とともに船員から身を起こし、やがて船頭になり船主になったそうです。
伯耆高田屋のことは鳥取県ではよくわかっていませんが、高田屋嘉兵衛とともに国後や択捉の島を舞台に活躍していたものと考えられます。

また、岡島正義が編集した「増補異説見聞略」の中に1812年(文化9年)10月、高田屋嘉兵衛が択捉島沖でロシア軍艦に捕えられ、カムチャッカ半島のペトロパブロフスクに拘留されたことが記述されています。その記述の中に孫三郎という人物が出てきますが、この人は気多郡潮津村(現在の青谷町)の新酒屋与惣兵衛の息子です。孫三郎は高田屋の北前船に乗り組んでいましたが、幸い嘉兵衛とは別の船に乗っていたため、難をまぬがれてふるさとに帰り、当時の様子を語っています。
このように、因幡・伯耆の人たちの中にも高田屋の船に乗って蝦夷地や北方の海で活躍していた人がいたのです。

3) 鳥取県士族の北海道開拓

1884年(明治17年)6月、鳥取県の士族39戸と平民2戸の家族を乗せた三菱汽船会社の宿弥丸(1,200トン)は、釧路に向けて賀露港(鳥取市)を出帆しました。これが、県勧業課の指導による鳥取県士族の北海道移住の第一陣です。

明治維新の社会変化によって、士族の生活は大きく変わり、当時の新聞は「鳥取県の士族の中には餓死寸前の者が80戸余りもいる」と報道しています。困窮にあえぐ士族に職を与えるため、県や明治政府もいろいろと授産事業を試みましたが、最も大きな期待をかけられたのが北海道移住でした。
鳥取県士族の北海道移住は、1889年(明治22年)までに合計8回続き、442戸が釧路や岩見沢、根室などに移住しました。

移住者は、北方警備と原野の開拓の熱意に燃えていましたが、荒涼とした原野での生活は想像を絶するものでした。住居は板ぶきの粗末な小屋で、吹雪には粉雪が吹き込んで人の頭や肩がまつ白になり、いろりの火をいくら燃やしても部屋は暖まらなかったといわれています。また、生活に最低必要な米、塩、みそを2年間支給され、農具と種子、それに農耕馬を2戸に1頭貸し与えられたとはいえ、道さえない原野の開拓は並たいていの苦労ではありませんでした。

しかし、移住者たちは強い団結で悪条件を克服し、釧路地方では鳥取村をつくり、やがて鳥取町に発展させました。
鳥取町は1949年(昭和24年)に釧路市に合併されましたが、鳥取の名は今も残されており、鳥取県の士族が入植して100年余り経過した今日、釧路市は北海道東部の中心都市になっています。

(2) 竹島の帰属問題

ところで、私たち県民の身近にも北方領土問題と似かよった大変重要な問題があります。それは、隠岐島の北西約157km沖合に浮かぶ「竹島」の帰属問題です。

江戸時代の初期、米子の町人大谷甚吉、村川市兵衛らが、幕府の許可を得て鬱陵島へ渡り、あわび、アシカなどの漁猟や木竹伐採などを行っていたころ、竹島は鬱陵島へ渡る途中の寄港地として、また漁猟地として利用していた小さな島でした。そして、1905年(明治38年)、政府は正式にこの島を竹島と命名するとともに、島根県の所管と決定し、領土権の確立を宣言したのです。

ところが、1952年(昭和27年)、大韓民国がいわゆる李承晩ライン宣言といわれる海洋主権宣言をし、竹島を大韓民国側に含めてしまいました。さらに、1978年(昭和53年)以降は、鳥取・島根両県をはじめとする日本海沿岸の漁民にとって、重要な漁場である竹島周辺12カイリ内の海域からわが国の漁船を締め出しています。わが国は、竹島問題を平和的に解決するため、粘り強く外交交渉を続けていますが、現在も解決するまでには至っていません。

竹島問題で苦労してきた鳥取県民は、領土の大切さを身近に感じています。北方領土問題についても強い関心を持たざるを得ません。

(3) 鳥取県における北方領土返還要求運動

1) 県民会議ができるまで

鳥取県内でも、北方領土の早期返還をめざして、民間の各種団体が中心となって署名活動や啓発キャラバンなどの地道な活動を続けていましたが、県民の各層へ運動の輪を広げるまでには至りませんでした。
このような状況の中で、1977年(昭和52年)11月10日に、鳥取市で「北方領土返還要求のつどい」が開かれました。このつどいでは、北海道から訪れたキャラバン隊の人たちや北方領土元居住者の切実な訴え、映画の上映などが行われ、会場を埋めた参加者をはじめ、県民の間に北方領土問題に対する認識が深まりました。

また、鳥取県議会でも、1977年(昭和52年)に「北方領土復帰の促進に関する意見書」を国に提出したのをはじめ、1980年(昭和55年)にも「北方領土の早期返還を願う国民運動の推進等に関する要望書」を総理大臣、外務大臣、衆・参両院議長に提出するなど、その意思を強く表明しています。

2) 県民会議の設立

1981年(昭和56年)から、政府が2月7日を「北方領土の日」と定めたことにより、全国的に返還要求運動が活発になりました。
鳥取県でも、それまで独自に運動を続けていた人たちが、お互いに協力して運動を活発にするための組織づくりに取り組み、1982年(昭和57年)に県民会議の設立発起人会を組織して県下のいろいろな団体に参加を呼びかけました。
そして、1983年(昭和58年)2月10日、青年、婦人、経済、労働、農業、漁業関係など幅広い団体からなる「北方領土返還要求運動鳥取県民会議」を結成しました。

また、鳥取県議会でも、1977年(昭和52年)に「北方領土復帰の促進に関する意見書」を国に提出したのをはじめ、1980年(昭和55年)にも「北方領土の早期返還を願う国民運動の推進等に関する要望書」を総理大臣、外務大臣、衆・参両院議長に提出するなど、その意思を強く表明しています。

(4) 北方領土返還要求運動都道府県民会議

1.名称
北方領土返還要求運動鳥取県民会議
2.設立年月日
昭和58年2月10日