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(1)山口県と北方領土のかかわり

1) えぞ地との交易

ア.えぞ地への関心

クマ皮・シカ皮・ラッコ皮や、さけ・にしん・こんぶなど、えぞ地(北海道)の珍しい物産は、日本海から瀬戸内海を経て、船で大阪に運び込まれ、逆に、織物や塩など、近畿や瀬戸内地域の特産物は、北の国へ向けて積み出されました。

これら北と南の地域を結ぶ北前船は、防長(山口県)の沿岸を巡って往来したことから、下関や上関など、各地の港が繁盛し、人々のえぞ地とのつながりは強まり、豊かな海に囲まれたえぞ地にロシア人が南下して来たことに対して、無関心ではいられませんでした。
長州藩の記録の中に、えぞ地の地図などが多く残されていたり、海国日本の防衛を説いた吉田松陰が、津軽(青森県)の竜飛崎に立って、えぞ地を望見したことも、北方への関心の深さを物語っています。

イ.三保虎五郎の活躍

江戸時代の中期、北前船の往来が盛んになると、防長の浦々でも回船を保有し、船乗りとなる者が増えてきました。
岐波村(現在の宇部市)の虎五郎は若いころ、兵庫の柴屋の船乗りになって活躍し、えぞ地へ何度も渡り、珍しいトナカイの角を地元の神社へ奉納しています。

また、年をとって船を降りた後、樺太や千島などで見聞したことを、村人に多く語っており、その話は「唐太話」という本にまとめられて、今も読み継がれています。その中には、千島の各地で行われる海産物の取り引きや、ロシア人との争いに備えるための大砲を、大阪から松前(北海道)へ運んだ体験談なども入っています。

ウ.赤間関港のにぎわい

北前船の増加に対応して、長州藩の各地では、港を整備し、波止場を築き、その入港を誘って栄える浦が多くなりました。
特に、赤間関(下ノ関)・三田尻(中ノ関)・室津(上ノ関)には、越荷方といって、船頭に倉庫や資金を貸す藩の役所も置かれ「出船千艘・入船千艘」のにぎわいでした。また、長州藩と松前藩の間には、京都の公家花山院の仲介で、その特産物を直接に交易するみちが開かれて、より密接な関係になりました。
山口県の瀬戸内側でにしんの絞りかすを肥料として使ったり、北海道で塩を「三田尻」と呼んだのは、そのためです。

2) 北海道の開拓

ア.山口藩の北海道4郡支配

明治新政府は、えぞ地を北海道と改め、区域を分けて諸藩に支配させました。
山口藩は、1869年(明治2年)石狩川の上流から日本海側にかけて、4郡を割り当てられたため、さっそく開拓者の募集を行い、産業をおこすことを考えました。しかし、まだ移住を希望する者も少なく、石炭の採掘や捕鯨も成功しないうちに、廃藩となったため、事業は中断してしまいました。
その後、1874年(明治7年)になると、ふたたび山口県は北海道開拓使の規則を示して、移住農民を募りはじめました。

イ.粟屋貞一の大江村建設

明治維新で特権を失った士族の中には、経済的に困窮する者が多く、その対策が問題になりました。
山口県でも、萩で士族反乱が起こっており、不況が続くと士族の北海道移住が重点的に進められました。
旧長州藩主の毛利氏も、かつての家臣を救済する目的で、余市郡に開墾地の払い下げを受け、移住民を募って送り出しました。

開墾地の責任者として一切をまかされた粟屋貞一は、入植者を励まして厳寒期を乗り切り、開墾から植え付け、収穫をすすめ、でん粉製造所や製麻所などを設置し、1888年(明治21年)には60戸を定着させることに成功しました。
その後、この村は、毛利氏の旧姓をとって、大江村(現仁木町)と名付けられ、発展を続けています。

同様に、旧岩国藩の士族も、宮崎源治右衛門に率いられて、札幌郡に集団移住し、山口村(現札幌市手稲山口)を建設しています。平郡島(現在の柳井市)の士族も岩見沢村へ移住して、成功しています。

ウ.屯田兵村への移住

屯田兵は、ふだんは開墾や農業に従事しながら、戦争の時には兵士として、北方の防備に当たる役目を担う人々で、1875年(明治8年)から25年間募集された大規模な移住制度でした。

北海道の各地に200戸前後の屯田兵村が計画されると、山口県からも、毎年、多くの人々が応募して移住しました。その主な兵村は、1886年(明治19年)に20戸が入村した野幌兵村をはじめとし、篠路(44戸)南太田(37戸)南滝川(47とう戸)北滝川(53戸)当麻西(27戸)当麻東(24戸)などで、合計23兵村(316戸)に及んでいます。
このほかにも、多くの山口県人が北海道に渡って、漁業や商業や鉱業などの発展に携わりました。

3) 北洋漁場への進出

ア.石丸好助と粭島漁民

太華半島の先端に位置する粭島(現在の徳山市)は、瀬戸内海の航路上にあり、遠くの海に出漁する漁民や、回船業に携わる船乗りの多かった島として有名です。

1907年(明治40年)、日本とロシアの間に漁業協約が結ばれると、粭島出身の石丸好助は、さっそく島の漁民を率いて函館へ渡り、カムチャッカ半島沖に、さけ・ます・かにの北洋漁場を拓いて、大成功を収めました。
その後、1931年(昭和6年)、日魯漁業株式会社に漁場を譲って粭島へ帰った好助は、北洋漁業で築いた私財を投じて、村の小学校や青年会館を建てたり、島に橋を架けるなど、郷土の発展に貢献しています。

イ.田村市郎と一井組

萩に生まれた田村市郎も、下関に海産物を取り扱う田村商店を置き、トロール漁法で西海に漁場を拓くとともに、北洋漁場の有望性にも目を向けて、函館のにしん漁業者の経営を受け継ぎ、1910年(明治43年)に一井組を創立しました。

この一井組は、やがてカムチャッカ半島沖のさけ・ます漁に乗り出して、たちまち北洋漁業の「三羽烏」の一つに成長し、1914年(大正3年)には日魯漁業株式会社に発展しています。
その後、市郎は日魯漁業を他人へ譲り渡して北洋から手を引くことになりますが、下関を本拠地とした田村汽船漁業部は、共同漁業株式会社を経て、1937年(昭和12年)に日本水産株式会社に発展し、北洋へも進出しました。

ウ.中部幾次郎と林兼商店

兵庫県明石で鮮魚商を営む林屋兼松の子として生まれた中部幾次郎も、1913年(大正2年)には下関に本店を移し、林兼商店を発展させました。そして、1921年(大正10年)には、北洋のさけ・ますの買取りと運搬に乗り出し、さらに1928年(昭和3年)にはロシア領漁区の経営をはじめ、パラムシル島摺鉢湾にかん詰工場を建言交しています。

また、一方、1920年(大正9年)には土佐捕鯨会社を買収し、のちの大洋捕鯨株式会社の基礎を築きます。その事業場は、択捉島紗那村や北海道厚岸町にあり、豊かな北の海が鯨の漁場でした。
このように、三方を海に囲まれた山口県は、下関を中心として水産業が発展し、北洋漁場にも進出して、北方領土と深い関わりをもっています。

(2) 山口県における北方領土返還要求運動

全国に次々と県民会議が発足する中で、各種団体から20余名が参加して、1983年(昭和58年)5月10日~11月21日までに設立準備会が数回にわたって開催されました。
その結果、山口県をはじめとして173団体の会員を結集し、1983年(昭和58年)11月26日に県民会議結成総会・大会を終え、ここに北方領土返還要求山口県民会議が発足しました。

(3) 北方領土返還要求運動都道府県民会議

1.名称
北方領土返還要求山口県民会議
2.設立年月日
昭和58年11月26日